ゆるトーク 〜みつけよう、あなたにぴったりのアーユルヴェーダ〜 #85 学ぶことと生き方について
運動量 ● ● ● ● ●
ビデオクラスのご視聴には
プランの購入が必要です
新規メンバー登録から3日間は
無料で視聴できます
第85回は、学ぶことと生き方について。この回は、アヤさん本人のトークをお届けします。ヨガやアーユルヴェーダの元となっている聖典、ヴェーダによると、学ぶ姿勢に3つあり、聞くこと(尊敬する人の話を聞く)、熟考すること、瞑想すること。これらで学びが促進されると言われているそうです。
ヴェーダのなかで学ぶことは、本当の自分を知ること、ダルマに寄り添った生き方をすること。ダルマ…明確な人生の目的が自覚できていない場合が多い気がしますが、その場合はどうしたらよいのでしょう?お話しを聞いてみました。
自然体でいられる心と体の関係を追求しながら、何事も一歩踏み出す勇気をもち経験することをモットーに日々学びを深めている。
ヨギー・インスティテュート500時間認定
作業療法士国家資格
アーユルヴェーダ学会アーユルヴェーダ・セルフケア・アドヴァイザー
仏教教師資格課程修了
全米ヨガアライアンスコース500時間(RYT500)講師
メディテーション・ベーシックコース(MBC)講師
セラピューティックトレーニングコース講師
シニアヨガ・トレーニングコース講師
ヨーガニードラ・トレーニングコース講師
見つけよう!あなたにぴったりのアーユルヴェーダ。
こんにちは。
ヨガインストラクターのアヤです。
このプログラムでは、
アーユルヴェーダの知恵に救われ続けている、ヨガインストラクターのアヤが、
毎回ゲストをお招きし、健康や美容に関する、
日常に生きる、ちょっと役立つ知恵をお届けします。
進行のサポーターをしているしちさんです。
しちです。よろしくお願いします。
yoggyairのライブストリームでは、アーユルヴェーディックヨガのクラスを
毎週日曜日の朝10:30に私、アヤが行っています。
そして、隔週金曜日の夜20:30にヒロ先生が担当しています。
季節に合わせた体のケアの知識とともに、ヨガで体を動かしていくクラスです。
また、アーユルヴェーダ料理研究家の水野香織さんによる、
アーユルヴェーダキッチンを月3回月曜日の夜19:30に開催しています。
アーユルヴェーダの食べ物やハーブのお話、そして実際のレシピについても、お話しを聞くことができるクラスです。
ぜひ、クラスでお会いしましょう。
-
アヤ
今回も、しちさんとゆるトークします。
前回からの続きで『学ぶこと』について、お話ししていきたいと思います。
では、しちさん!どうぞよろしくお願いいたします。 -
しち
しちです。
よろしくお願いいたします。
-
アヤ
学ぶこと…ですね。
実はですね、ヨガや、アーユルヴェーダでも、 ヨーガの聖典っていうのが大元になっていまして、、 その中で『学ぶことの姿勢』っていうのが実は挙げられています。
3つほどあるんですけれども。
1つは、まずは『聞くこと』。
先生の話を聞くこと。 もしくは、もうちょっと生活レベルで言えば、前回お話ししました、 憧れの人であったりとか、尊敬する人であったりとか、 身近でも、こんな人素敵だなって思うような、崇高な存在ですね。 そういう方からのお話を聞くこと。
そして2つ目は、その話を聞いて『受講すること』。
よく考えて、行動を起こしていくことになります。
そして3つ目っていうのが『迷走すること』。
この3つが合わさっていくと、 学ぶことっていうのが促進される、というふうに言われています。
このヴェーダの中でも、学ぶことっていうのはどういうことなのか、 っていうふうに言えば、『本当の自分を知ること』になりますね。
要はこれは、ダルマに寄り添った生き方に近づいていくための、 一つの指針っていうふうにも言えます。
ですので、この…ダルマっていたところが、 一体何者なのかって言ったところに関しては、 やっぱりみんなそれぞれ、これがダルマなのかな?みたいな形でですね、 疑問符を打ちながらですね、自分自身を見ている方もいらっしゃると思うし、 もちろんですね、そのダルマに寄り添って生きてます!っていうふうに、 確信を持ってですね、生きられている方っていうふうに、 大きく2つに分かれた道っていうのがあるんじゃないかなと思っています。
私自身もですね、 本当にこれがダルマなのかな?っていうふうに、 やっぱ疑問符は一応つけてる状態なんですよね。
で、確信に近い形にしてしまうと、 なんかどこか自分の可能性っていったところが、 縮小されてしまう、制限されてしまうような感じがするので、 今はダルマについては、疑問符をつけて、 これかなこれかな…っていうふうな形でですね、
自分の心の赴くままに、学び深めているっていうのが実状ですね。
ちなみに『ダルマ』っていうのが、どういう定義になっているのか? もうちょっと噛み砕いて話していくと、
そのダルマっていうものは、実際にしたいこと、ですね。
自分がこんなふうになりたいとかですね、 理想の自分っていったところですね。 で、目標があるとか。
あとは今、実際にやっていること、取り組んでいること、 し続けていること、こういうものもダルマの中に入ってきます。
で、ただそれを自覚している場合と、 自覚していない場合っていうのがあります。
で、この自覚している人ってどのぐらいいるんですか?っていうふうになれば、 そんなにいないよ!っていうのが、 これが実は、昔からのヴェーダからの教えになります。
なので、そのダルマに寄り添って、私生きてます!って、 確定的に言える人ってほんの人握りっていうふうにも言われていますから、 やはり、私が今、自分自身でも、 ダルマに寄り添ってるかな?っていうふうに、 疑問符をつけて取り組んでいるっていうのは、 そういう一握りの中に、まだ私は入っていない可能性があるっていうことです。
もしかしたら入ってる可能性もある。どちらともつかないけれども。 でも、まぁどちらに行ったとしても、 人生終わりのときに、結果が多分見えてくるんですよね。
「結果こうだったな」みたいな感じで振り返ったときに、 「ああ~すごく素晴らしい人生だったな」っていうふうに言えるかどうか っていうのが、これがきっと大事なことなんじゃないかなと思ってます。 -
しち
なるほど~、ありがとうございます!
アヤさんは、常に学び続けてたりとか、 先日もお話を伺ったアーユルヴェーダの先生たちも、 患者さんだったり、カウンセリングされる対象の方たちのために応えようと思って、 さらに学びを深めてたりとか、知識を共有されてたりとかっていうのを見てたりとか。
あとほかに…、ヨガの先生たちもずっといろいろ専門的な知識を深められてたりとかもしますし。 最近だとこう、音楽とかね、若い才能たちがボンボン生まれてきてたりとか、 そういうのを見てるとなんか、自分たちのやりたいことを超えた何かこう…、 その先に伝えたいことがあるとか、先があるとか。
むしろ本人の、やりたい!とかを超えた、使命があるんじゃないかな、みたいな。 そういうのが繋がってるんじゃないかなと思って。
そういうダルマを自覚しているような感じを受けたんですよね。
ご自身の力を発揮してる人を見ると。
で、生涯かけてその道を進んでいこう!みたいなライフワークにもなってるような気がしていて。
なんか、そういう方たちを見てると、羨ましいと思いつつ、 じゃあ自分はどうだろうな?と思ったときに、 ちょっと分からなかったりするんですよね。
そこまではっきりと、「私はこれをやってる人です!」みたいな、 そういうものがちょっと分からないというか。
でも、きっとそういう人も多いんだな。 多くていいんだなっていうのも、アヤさんのお話伺ってて思いました。
自分はこれをやって生きていこう!とか。 なんかそういうのが、漠然としてる。 見つかってないっていう人が、多いと思うんです。
そういう方達…、私も含めてですけど、 どうしたらいいんでしょうねっていうところがあって(笑) -
アヤ
そこはね、結構なかなか難しい問題でもあるなぁっていうふうにも思っています。
まぁ、なんだろうな…、本当に好きなことに寄り添えてる人で。
そして、先ほど、ダルマに寄り添って、確信的に人生を謳歌している方っていうのも、 もちろんいらっしゃって。
で、ヴェーダの教えの中では、そのダルマに従って生きている人には、 次にはアルタって言って、富が集まりますよっていうふうに言われてます。
なので、それはただ単に『お金』っていう物質的なものだけではなくて、 人と人とのつながりですね。 人との縁っていったところの富です。要は人財ですね。
人の財産って書いて『人財』ですね。
こういうものも集まってきますよっていうことが言われています。
じゃぁ、それをですね、自分の中にふと垣間見たときに、 どれだけ今の私の人生にとって、人が財産になっているのかっていうふうに振り返ってみると、 意外にいるじゃん!ってなりませんか?(笑)
関わってくれる人がすごくいるし、こういうお話をできる人、仲間っていうのもいるし。
そして、前回お話ししたように、私に…え、それってどういうこと?みたいな感じで、 考えるきっかけを与えてくれるような人っていうのもいたりするんですよね。
で、それっていうのは、実は財産の一つだったりしますから。
ダルマが、ないないない、とか…。
ダルマに寄り添ってないんじゃないか、みたいな感じで思っているかもしれないけれども、 実は自分の中で、もう一回立ち止まって振り向いた時に、 意外に富が集まってた、っていうことはあると思います。
ですので、見つかっていない時にはすごく不安になったりとか、 落ち着かない感じで、私たちって、答えが欲しいんですよね。 なので、答えが明確に見つかっていくと、もうこれだ!っていうふうに、 確信的な形で行動ができたりするんだけれど、 人生って曖昧なものの集まりじゃないですか。
ですので、やっぱりその曖昧なものの中で生きていくってなると、 自分のアイデンティティがわからなくなる瞬間もあるんですよね。
だけども、それを教えてくれるのも、やっぱり周りの人たちだったりとかしますので、 やっぱりその人と人との縁っていったところは、繋がっているのであればですね。 その縁を大事に、もしくはまたこれから、その縁が繋がっていく可能性っていうのもあると思います。
で、まぁ、私の周りの人とかですね。 私自身もそうですけど、前回お話ししました。
どんなに憧れの存在がいたとしても、やっぱり踏み込める…、 自分でこれを探求してみようっていうふうに思えることと、 思えないことの線引きがあるっていう話をしましたよね。
で、それって、自分の『好き』の閾値って言ったところが、 実は関わっているんじゃないかなっていうふうに、今は考えています。
で、私たちって比較しなければ、答えって見つからないような感じがあって。
例えば、好きとか嫌いとかっていうふうに、 2分していくような表現技法っていうのがあれば、 どちらか一方みたいな感じで、極端に走っちゃうんですよね。
なんですけれども。
実は子供の時、ピーマン嫌いだったけど、 でも大人になってピーマン好きになりましたって言って、 いきなり逆転現象が起きることもあるじゃないですか。
でもそれって、本当に嫌いだったの?っていうふうに問いかけられれば、 いや嫌い…何が嫌いだったんだろう?
その要素ですよね…、苦いのが苦手だったとか、 匂いがだめだったとか、あの色のツヤめきが苦手だったとか(笑) 歯ごたえが苦手だったとかっていう風に、 多分五感を通して、五感の中でも何かちょっと違和感のあるものに対して、 嫌悪感を抱いていたっていうことがあったと思うんです。
だけど、それを全部まとめてピーマン嫌い!みたいな形にしてしまっているから、 右と左どちらか一方みたいな形で、偏ったときに『嫌い』っていうふうになったんです。
だけど、ちょっと大人になってみると、いやいや、好きと嫌いの間でも、 どちらでもない、グレーゾーンの振り幅っていったところは多くあるよね、 広くあるよねっていう風なことが見えますよね。
仏教の勉強を私、してるんですけれども。 その中で、中道(ちゅうどう)っていう考え方があります。
それは、右に行き過ぎず、左に行き過ぎず、 自分にとってバランスの取れる良い場所っていうのはどういうとこなのか、 見つけてみましょうっていう考え方です。
で、これっていうのは、先ほど言った、 好きとか嫌いとかのちょうど真ん中、グレーゾーンに当たる部分ですよね。
そのグレーゾーンの中でも、どちらかというと好きより、 どちらかというと嫌いより、みたいな形で、 十段階のグラフの中にそれをのせていくとするならば、 きっちり真ん中の5のところで、どちらでもないっていう人は多分いない。
だけど、その5よりも好きのほうに、半分よりも好きよりに行けば「好き」、 半分よりも嫌いよりに行けば「嫌い」。 ちょっとだけ軸がぶれるだけで、どちらかに傾いちゃう、っていうだけの話なんです。
で、やっぱりその…、先ほど言った、憧れの存在の人の話しでも。
私が取り組めるもの、ちょっと興味を持つものっていうものは、 その真ん中よりも若干「好き」より。
そして、ちょっと今いいかな…みたいな、私今ここに興味あんまり持ってないかも、 ってなったら、完全に嫌いではないんですよ、気になるんですよ。
嫌いではないんだけど、真ん中から若干ちょっと嫌いよりの方に偏ってしまってる、 っていうことが起きてるのかもしれないなっていうふうに、 完全に結果をそこで決めずに、グレーゾーンの中に置いてあげるだけで、 いつでも、これやりたい!っていうふうな芽が出てくるときに、 いつでも行けるようになっていく、準備段階っていうふうに思うだけで、 その置き場っていうのが変わってくるんじゃないかなと思ってます。
で、アビアサヴァイラーギャっていうヨガの教えがあるんですけれども。
アビアーサっていうのは『努力すること』を収集して、学ぶこともそうですし、 何かこう自分が目標とすることに、邁進し続けること、ですよね。
で、ヴァイラーギャっていうのは『手放していくこと』で。
実はこの、手放していくっていうのが、 言葉だけで表現していくと「無関心」みたいな形で言われたりとかするんですけど、 私もこれは悩まされた言葉でですね…。
完全に無関心になることと、そうでもないなっていうのがあるなっていうのを気づかされたんですよね。
それは、やっぱりこう…今は手がつけられないけれども、 いつかその種が発芽してきたときには、いつでもアビアーサ、努力の方に傾けれるなっていうのがあるんだっていう、 右か左か、好きか嫌いか、できるかできないか、とか…そういうはかりにかからないものもあるんだっていうことを 教わったんですよ。
自分の経験から学んでいったんですよね。
なので、やはりそうやって、ダルマが見つかっていない方に振り切るっていうよりは、 もしかしたら今はまだ、私が認識していないだけで、 ダルマって…やっていることもダルマに入るっていう話がありましたから、 今やっていることっていうのが、特別に苦ではない、 もしくはそのやっていることの中でも、どの部分にわくわく感を覚えていくのかっていう風に、 ピーマンの話のところで見たように、分析をしていく事、 こと細かに分析をしていくと、好きなエッセンスっていうのがきっと見つかるんですよね。
ああ~共通して私はこういうことが、「好き」な方に寄ってるんだなっていうのが見えてくると、 おそらそこから、また人が集まってくる。
種が植え付けられてますから、その発芽に向けて、さらに成長できるべく、 人が集まっていって、そしてその花が咲いていくところまで、 どんどんつながっていくんじゃないかなと思ってます。
ですので、今ね、何か答えを見つけよう!っていうふうにしていくと、それは苦しみになる。
結果を追い求めていくっていうことになりますからね。
ですので、やっぱりその「苦しみ」を作るというよりは、 今できること、そして今やっていることに対して、どの要素にときめいていくのか、 わくわく感を覚えていくのか。 心は踊ってないけど、でもやってると集中できるな、みたいこととか。
その楽しむ度合いとか、みんなそれぞれ違いますから。
私も、仏教を学んでいます、ってなって、じゃあそれで、 どこに楽しみを見出しているのか?っていえば、 仏教の中でも歴史概念ですよね。
ヨガとの関係性って言ったところが一番深い、インドの思想的なところ、 文化的な背景っていったところを歴史から学んでいっているところに、 一番興味がある。
だけれども、じゃあ仏教の要素の中で、どういったところが、 まぁまぁかなぁ~みたいな感じで思ってるのは何かって言ったら、基礎・規則(笑)
その宗教団体のルールですよね。
やっぱそこに関しては、ちょっと私、あんまり興味を持てないですよね、残念ながら、今はね。
だけど、多分これからもしかしたら、10年、20年経ったときに、 え!ルールってめっちゃいいじゃん!みたいな感じで、 声高らかにあげてる私もいるかもしれないっていうふうに思えば、 今はこう思うけれども、でも、時が経てば分かんないよねっていうふうに、 なんかどこかグレーゾーンの中に入れておくっていうのは、自分自身を豊かにしてくれるなっていうふうに思っています。
-
しち
へぇ~、面白かったです♪
なんかこう…なんていうのかな。
例えば、年齢を重ねていくと、若い時はまだしもね。
例えば、もう40歳、50歳って年を重ねていって、 私はこれで生きてます!みたいな、掲げられていないと、 なんかちょっとフワフワしてるんじゃないかななんて、 思ってたりとかもしたんですけども。
はっきりそう言える人の方が、そもそも少なかったりとかもするし、 傍から見てそれをしっかり持ってる人だって思って見てても、 その人の中ではまだちょっと、そこまで確信を持ってない場合もあったりとかして。
興味の対象を見つけていくときに、 好きだなぁとかワクワクするなって、そういう感覚っていうのを指標にしていいんだなと思って、 決して役に立つからとか、ではなくて、興味を持てる、 そのわくわく感で進んでいいんだなっていうことが、お話聞いててわかりました。 -
アヤ
ありがとうございます^^ -
しち
ありがとうございます!
続きをまたどんどん聞いてしまいたくなるんですけれども(笑) -
アヤ
2人だと、いつものオフトークで、 ちょっとくつろいでやらせていただきました。
お聞きの皆さんには、聞き苦しかった点もあると思いますが、お許しください。
ありがとうございました~ -
しち
ありがとうございました!