いつも自分のなかに二人いるような感覚が。

――体を動かすことは好きなんですか?
ヨウコ そうですね。3歳からクラシックバレエを習っていました。実は小さいころ病弱だったんです。ぜんそくもあって、学校を半分休んでいたほど。親が芸術的なことが好きで、クラシック音楽を聴いたり、バレエをみせてくれたりしていましたので、自分も踊りたい、バレエを習いたい、と言ったら、健康のためにいいんじゃない?と賛成してくれました。

――最初は、バレリーナになりたかったのでしょうか?
ヨウコ 中学受験でバレエを休んでいるときに、自分はバレリーナになれないな、とあきらめました。踊ることは好きだけど、バレリーナにはなれないと。自分の一番目指したい憧れのバレリーナのラインを自分は持っていない、と見極めたんですね。すごく決断は早かったです。それを中1のときにスピーチにした思い出があります。昔からARTに興味があり、美しいものが好きで、「美楽」にこだわりがありました。病弱だった時期も大切だったかもしれません。じーっといろいろ観察していたので。

――決断の速さは生まれ持ってたんでしょうか?
ヨウコ 迷う時間がもったいないので、切り捨てるの早いですね。仕事に関して決断は早いです。でも普段の生活では優柔不断でごはんを食べそこなうとかよくあるんですよ。1人でお店に入れないし。メニューとか決めるのが一番苦手ですね。二面性があります。いつも自分のなかに二人いるような感覚があって生活してきました。一番多感な、青春の時期に自分がもう1人いると思っていたぐらい。活発な自分と病弱な自分と背中合わせにいて、全く性格も違うみたいな。

――宝塚音楽学校を受験することになったきっかけは?
ヨウコ 親が望む普通の女子大生になるのではなく、何か先の自分に繋がることを学びたいと、グラフィックデザインを専攻し芸大を目指していたんです。絵は好きで小さい頃から描いていたんですね。高1から受験体制になって、美術専門の塾に通ってデッサンなど本格的に始めました。
あるとき、バレリーナの人がモデルにきた日があったんです。その方と休憩時間に話をしていたときに、「踊りたくならないの? そんなにやっていたのに」というようなことを言われて、その言葉がけっこうずっくーんと響いたんですね。高2の夏でした。体が動くうちに踊っておいたほうがいいのかも、と思い立ち、「私はニューヨークに行って踊る!」って決めたんです。でも案の定、親には猛反対されて。

ちょうど日本でNYのカンパニーのオーディションがあって受けたら受かったんです。このまま家を飛び出してでもニューヨークに行っちゃおうと思ったんですけど、日本でも踊れるところあるわよ、と勧められたのが宝塚でした。親にしてみたら、宝塚も本当はOKじゃなかったんです。選択の幅の中で、それならまだいいか、という妥協点だったと思います。うちから芸人は出せないとまで言われましたし(笑)、本当は大学に行って欲しかったわけですから。宝塚の舞台は受験を決めてから初めて観ました。女子校だったので、宝塚ファンの同級生も多かったと思います。彼女たちには受けるなんてとても言えないな、と思っていました。

家族のような縁でつながっている、宝塚時代の仲間たち

――宝塚音楽校は厳しいと有名ですが、入っていかがでしたか?
ヨウコ 同期は71名。中卒から高卒まで幅があって、私は同期のなかで一番年上でしたね。学校は予科、本科の2年。実は入学式の日にやめようと思いました。想像以上に厳しかった。本科生が予科生を指導するシステムで、芸事とは関係のないようなこと、細かなルールが沢山あり、正直ショッキングでした。寮生活だったので、入学式の日に夜中抜け出そうと思ったのですが、ここを抜けたら私は自由になるけど、同期生は、地獄をみるなと思い(笑)それでとどまったんですよね。何でも連帯責任でした。自分一人が良くてもダメ。一人の失敗は皆の責任。

現在は状況が変わっているようですが、昔は、親にも絶対に内情を話してはいけないことになっていて、ネットも携帯もない時代ですし、まさに「忍耐、努力、根性」の日々でしたね。先輩の目をいつも気にしてビクビク。お風呂も恐くて入れなかった。お掃除のチェックも半端じゃなかったですからプロ並みのワザを身につけました。喧嘩もしましたが同期生と足並みを揃えていくしかなかった。でも、そんな1年のお陰で「同期生の結束」が培われ、離ればなれになった今でも家族のような不思議な縁で繋がることができています。

――学校にいるときたいへんで、でも劇団員になってからはいかがでしたか?
ヨウコ 音楽学校を卒業すると、その春から劇団員の研究科一年生になって初舞台に立ちます。劇団員になってからも、(退団しても!)上下関係は続きますが、より良い舞台を作り上げる方に向かっていくので、厳しさの形は変わります。イジメもありましたが、それはどこの社会でも同じでしょう。私自身、厳しい上級生だったと思います。ちょっと真面目に頑張りすぎていた時期もありました。家族以上にお互いをさらけ出し、いいことばっかりも言っていられないですし。仲間でありライバルであり。今から思うと、不思議な世界でしたね。今入ったらもっと上手に対応できるのにと思います。(笑)

後編へつづく

写真・文 Art of living magazine 編集部