創る人も幸せになる、プロダクト

なにか地域に関わる仕事をしたいと考えていた友廣さんは、大学では経営学を学んだが就職活動はせず、卒業後、日本の山間部の村や漁村をめぐり、そこに暮らす人々と生活を共にしてきた。それから、地域と人、人と人をつなぐ仕事を生み出し、いくつもの事業を立ち上げてきた。

東日本大震災後、宮城県石巻市牡鹿半島で男性漁師のサポートをしていた女性たちに各々の役割としての仕事をつくること、住民同士の交流機会創出によるコミュニティづくり(再生)を目指したOCICAづくりをはじめた。地元にある素材、鹿の角と、漁網の補修糸でつくられるドリームキャッチャー模様のネックレスとピアス。そもそもなにをつくるか、というアイディアから、素材探し、素材提供、加工、工具、制作場所、売れるデザイン、販売にいたるまで、様々な出会いを経て、最盛期には12人のお母さんたちがOCICAづくりをおこない、作業所には累計1000人を超える人々が日本全国、世界から訪れ、のべ100ヶ所以上で販売される、という事業へと発展した。

2014年の秋に、作業所としている牧浜に牡蠣剥きの処理場が出来て、牡蠣の養殖も本格的に再開し、お母さんたちの本業の牡蠣剥きの仕事が戻ってきた。もともと、週2回、火曜日と木曜日の午前中にだけ、OCICAづくりをしていたが、なかには高齢や廃業によって仕事に戻らないお母さんもいて、いまは3人ほどで続けている。

OCICAを運営するつむぎや自体も、もともと4人ではじめて、いまも4人いるが、人は入れ替わっていった。立ち上げ時のメンバーのうち二人は、大学を卒業して就職や大学院入学までの間のインターンとして働いていた。組織のスタイルにも柔軟性がある。
「もともと必要に応じて法人を立ち上げているので、僕らが食っていくための事業をやる、っていうのは、本末転倒だと思った。必要なことのために、チーム結成したので、必要がなくなれば、解散するのが本来のかたちかな、とも思っていた。」と話す友廣さん。

お母さんたちに依存するような関係は、あんまり健全じゃないと思ったという。「お母さんたちが牡蠣の養殖に戻りたいと言ったときに、『ぼくらの収入はどうするんですか!明日から食えないじゃないですか』って言うのは不健全じゃないですか。震災支援ではそういうことも起こりうると思いました。支援のために入ってきているはずなのに、移住してそれを本業にしてしまったら、気がついたら依存関係になって、変化を促せなくなる、ということが起こりうるなと。」
つむぎやでは、東北以外の事業もやっているし、今は全員が兼業で働いている。だからこそ、立ち上げた事業に依存せず、地域の人たちが変わろうとしたときに、素直に対応できたという。

作る人も、幸せにならないと社会は幸せにならない

OCICAを作っていたお母さんたちの元をたくさんの人が訪れて、作り方を習ったり、お茶っこでおしゃべりしたり、その後、その体験とともに、OCICAのことを地元で伝えていったことで、取扱い店が増えていった。また、メディアに対しても、自分でちゃんと見て、知って、交流したうえで、感じることを書いてもらいたい、ということで、直接取材してもらうことを方針としていた。牡蠣養殖関連の本業が女性たちに戻ったあとは、このプロジェクト自体をやめることも考えようと思っていたが、つづけたいというお母さんたちのために、運営管理のコストを縮小し、お母さんたちの仕事の範囲を増やしてもらうことで、細く長く続けられる事業モデルへとシフトしている。いまこの時代に新しい仕事のあり方や生き方、というのをつむぎやではいくつもかたちにしてきた。

「OCICAを通じて、結果的に大事にしたことは、これからの社会に必要なことだと思っています。いま商売する人とか、ものを作る人って、よりよいサービスとか、製品においてお客さんの満足度を高めることを考えるじゃないですか。作る人も、幸せにならないと社会は幸せにならないと思うんです。でもみんな顧客視点を追求して、顧客のわがままをどんどん聞いていって、その結果つくる人が疲弊して、その人がまた顧客として満たされようとして、いろいろ無茶な要求していったりする。提供側とお客側ってぜったい入れ替わりますよね。ひとりのひとが、顧客にもなれば、作る側にもなる。ほんとうは提供者、お客さんの両方、幸せが成立するかたちというのが必要だと思うんです。でもいまの世の中ではそういう話にあんまりならないですね。僕らのなかでやっぱり作る人も幸せになって、買う人と両方が幸せになれるプロダクトのかたちというのを模索してたんだと思います。」

お母さんたちの笑顔を最大化させることが、僕らにとっての成功の指標

OCICAが軌道にのってきたころに、東京でビジネスをやっている人たちに話すたびに、「まだまだこれからだね」「もっともっと大きくして、たくさんの人を雇って、売上ももっともっと大きくしていかないとね」というようなことをよく言われて、違和感を覚えたという。そんなとき、友廣さんはあらためてこの事業の目的を思い返した。
「そうだ、僕らはお母さんたちのための解決策としてこの事業を立ち上げているんで、事業を膨らますことが僕らの成功の指標じゃない。お母さんたちの笑顔を最大化させるということが、僕らにとっての成功の指標なんだな、と思ったんです。成功の指標が、資本主義の枠組みの中だと、どうしてもわかりやすい、売上とか、数値化される世界になっちゃうんです。そういう違和感はすごくありましたね。」

規模を大きくしていこうとすると、工場みたいにして俗人性を排さないとリスクになってしまう。だれでもできるように作業を細分化して、誰かが病気で休んだ場合にも、他の人で代替がきいてしまう。資本主義のビジネスでは、それが当たり前の正しさになっている。
「僕らは、できるだけ俗人性を大事にしました。○○さんじゃないとこれは作れない、というところを。だからお母さんたちも自分の存在意義を確認できるし、つくれている実感や、必要性を感じてもらえたと思うんです。極力、人を無力化する仕組みにはしない、というのを大事にしてきました。」

社会で働きはじめると、自分が大事にしたい価値や気持ちがうすれていってしまうことが多いなかで、友廣さんはこれまでぶれずに歩んできたように見える。学生時代に中山間の集落に行く機会があり、そこで、ここには自分ができることがあるかもしれないと思ったという。

「なにもできないなりに、でも自分に求められる余白みたいなものがある、それを育てていくことで、仕事や、生業になっていくかもしれない」と予感したそうだ。他の地域でもそんなふうに、自分は役割をみつけられるか知りたい、どんな人がどんなふうに暮らし、働いているのか、を知るため、半年間かけて日本各地をまわった。いま、そこでの経験と出会いが次々と友廣さんに新しい仕事を生み出している。

写真・文 七戸 綾子