ぬかるみのジャンプ~励ますよりも大人が子どもにできること~
vol.12
それはおそらく、自分のことを上手に愛せていなかったからです。そんな私が、苦手な子どもを愛せるのでしょうか。
こどもを授かって、育児が始まり、いろんな経緯を経て、今、私は子育て支援センターでボランティア活動をしています。お子さんをお預かりしたり、マタニティヨガを教えたり。そこで出会うたくさんの子どもたちがいます。そして、自分の子どもを介して出会う色んな子どもたち。
なかには、問題を抱えている子もいます。発達の問題であったり、友達同士のいざこざの問題、そして繊細さが邪魔して学校に通えない子。はたまた、家庭の問題を抱えている子たち。
その子たちを見てると、自分自身を思い出すことがよくあります。私にも抱えていた問題があった。誰にも言えなず、小さかった自分では理解したり、解決することができなかった問題。
それはまるでぬかるみでジャンプしているようなもの。必死に必死にジャンプしています。ただ、足元がぬかるんでいるから上手く跳べません。まずはぬかるみから陸地に、地面にあげてあげなければなりません。ちゃんとした地面があるからジャンプができる。子どもたちにとって、その地面とは、何でしょう。
ヨガのプラクティスの中でも、基盤を作ること、土台を整えることを大事にしますよね。
大地を踏むから上に伸び上がれるのであって、無重力状態では、筋肉を上手に働かせることはなかなか難しいことです。地に足をつけ、アーサナという「制限」を体に与えることによって私たちは上手に伸ばしたいところを伸ばせるし、自重を使ってバランスを取れるし、自分の持っている力を発揮することが出来ます。「制限」があるって、実はとてもありがたいこと。
「制限」・・・地面があるって、地面を踏むって大事なこと。地面を踏みジャンプできるようになると、ちゃんと自分の抱えているものに気づけます。
ランドセル背負ったままジャンプはしにくいから、高く跳ぶためには必要のないものをおろさなきゃいけない。
私たちも、いらない力や強張りを、アーサナの中で気づき、解いていく。そしてよりシンプルな力で、そのアーサナを理解していく。抱えていては跳べないのです。
命そのもの、存在そのものをまるっと肯定してもらうこと。自分の力を信じてもらえること。愛してもらえること。
その安心が感じられない子どもたちは、ずっとぬかるみでジャンプしている。ぬかるみでのジャンプは長くは続きません。そのうち、疲れきってしまう。大人がどんなに跳び方を教えても、応援しても疲れてしまいます。人は簡単に楽なほうに流されます。子どもが自分自身を諦めて、ぬかるみから這い上がれなくなってしまう前に、大人に出来ること。それは、基盤に、土台に、地面になってあげること。
「あなたを愛しているよ」「あなたが大事」
たったその一言を子どもたちは待っています。
「もっと足をあげなさい」「その荷物はおろしなさい」
そんなことは、大地を蹴れてから気づくことなんです。だから、まず愛してください。条件つけずに愛してください。自分の子どもだけじゃなく、大人として、生きる先輩として、愛をください。
ヨガのプラクティスがとても興味深いのは、最後に行うシャヴァーサナ「屍(しかばね)のポーズ」があるということです。たくさんアーサナで体に制限を与えてきたのちに、必ず最後にそのポーズを行います。その名の通り、屍のように肉体をマットの上に解いてしまうポーズですが、なんだか私にはぬかるみに帰っていくような感じがするんです。それは、ネガティヴな意味ではないんですよ。陸地に上がり、ジャンプしたり伸びたり縮んだりしながら、自分自身の内側に眠る力を存分に発揮した後、そんなことすら手放してしまうようなプラクティス。
でもきっと、制限の中で自分に与えられた力を知ることが出来たからこそのシャヴァーサナなんだと思うんです。肩に背負った荷物を降ろすために、心に抱えた荷物を解くために、「自分」という制限を味わう。ぬかるみから大地へ。大地からぬかるみへ。
肉体に閉じ込めていた意識が覚醒し、そして自由になる時まで、「自分」を上手に使って進化するために、ぬかるみでヘトヘトになっている子どもを見かけたら、どうぞ、「あなた」を使って愛してください。
ヨガの最終段階のサマディ(三昧)。悟りの境地と言われるサマディですが、
悟り・・・つまりそれは、人間本来の可能性を最大限に出しきることを言うそうです。
ヨガのプラクティスって、よく出来ていますよね♪
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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子