その一音に込める~マインドフルに、感じたままを肯定してみる~
vol.21
子どもたち自身が代わりばんこに次の演奏者の紹介をしていました。次の演奏者は4年生の女の子。自分で選んだ曲を演奏するといいます。
「エキゾチックな音がとても気に入っています」
・・・・・・確かそんな紹介文だったように思います。発表会用にドレスアップした女の子がステージに現れお辞儀をしました。嬉しそうにピアノの前に座り演奏が始まります。とても、つたない演奏でした。つっかかりながら演奏し、お世辞にも上手とはいえない腕前でした。指使いも難しく、とてもチャレンジングな選曲だったのでしょう。そんなことを思いながら聞いていましたら、一瞬、「???」と思う静寂を感じたように思った次の瞬間、
「チャーン」
と不協和音。音符が視覚で見えそうなほど、見事な和音。とてもエキゾチックな響きが会場に鳴り響きました。大事に大事にその不協和音を両手で押さえたことが伺えました。4年生の女の子は、喜々として満足げに曲の続きを弾き始めました。でもその一音を弾きたくて、感じてほしくて彼女はこの曲を選んだのね!! と鳥肌が立つほどの瞬間でした。その一音で、こちらの細胞まで奮い立たせちゃうくらいの集中力、まさに“マインドフル”な演奏だったのです。
【プラティヤハーラ】は、そもそもは「向けて集める」という意味だそうです。私たちの感覚(五感)は常に外側の世界に向かって使われ、見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりして、それによって心を働かせたり判断しているわけです。
自分の外側で起こったことに何かを感じている。それを、【制感】するのです。感じたままを肯定してみる。ジャッジが始まると心が働きだしてしまうから、ありのままを見つめる訓練をしていきます。
すると、外側の事象ではなく、自分自身の感覚を見つめる作業になっていく。心は鎮まります。どんどん五感が外の対象物ではなく、自分の内側の世界へと結びついていく。外の出来事に一喜一憂してエネルギーをすり減らしていた時とは違った感覚になっていきます。
諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に似たものの如くになっていくのが、制感(プラティヤハーラ)である
――ヨーガ・スートラ(Ⅱ-54)
「これを見ている」
「こんな音が聞こえている」
「こんな匂いがする」
「この味はこうだ」
「これを触っている」
ただそれだけを見ていくと、心が勝手にそれと結びついて必要以上に反応していることに気づきます。そして、それは良いだの悪いだの、好きだの嫌いだのと、あたかも外側の世界がそう感じさせているかのように錯覚していることにも気づくかもしれない。
「マインドフルネス」も、まさにこんな意味がありますよね。
「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」
私たち大人は上手くやろうとします。前後のつながりが大切です。首尾よく滞りなくそつなく行うのが大人のたしなみです。自分の苦手をごまかすために必死で涼しい顔をしてやりすごしているかもしれません。心を自分自身に集中させて演奏している女の子を見て、純粋にその一音に今の全てを表現している彼女を見て、他のどんな上手な演奏よりも私は感動しました。
さぁて、大人の私たちはどうでしょう。何かに心を集め、今この一瞬に心を込めていますか? 久しくそんな経験していない人がいたら、新年のこの時、心を集めて生きてみませんか? 4年生の女の子のようにキラキラとこの瞬間に生きてみませんか?
どうぞ皆様、マインドフルな一年になりますように。
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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子