友だちにどうしても分かり合えない部分があると、どうして寂しいのでしょう?
vol.14
「大人になってから友人が出来にくい」という記事を読みました。とても共感しました。それと似ているかもしれませんが、相談です。
友だちになった方がいます。接し方も心地よいですし、価値観も合い、月に数度しか会いませんが、楽しくやりとりさせてもらっています。ただ今日、その友人の考え方に、どうしても分かり合えない部分がありました。今までなら、「こういう考えもあるのよね」と共感はしなくとも、理解はしてきたつもりでした。でも今回のは理解し難くて。そして、それがとても寂しかったんです。
頭では、人間は完全に分かり合える者同士なんていない、と思いつつ、心では、分かり合いたいと思っているのでしょうか。完全に分かり合うなんて無理だと分かっているのに、どうして寂しいのでしょう。
答えのヒント:
友だちになった、仲良くなれたと認識してから、分かり合えない部分に戸惑っているということですね。これは、私たちの多くが経験したことがあるのではないでしょうか。
前者では相手を知ることに時間をかけられますが、後者だと意気投合した勢いの中で多くのものを見過ごすこともあるのでしょう。けして簡単に友だちになるなと言いたいのではありません。先に意気投合してから、相手を知り始めたとしても素晴らしい友人関係に発展することも十分あると思います。
しかし、あなたの「分かり合える」という言葉は、同意し合えるというニュアンスに感じられるのです。何かに対する意見が合う、好みが合う、同じ価値観を共有できる。これらは同意できるであって、人としてお互いの存在を認め合うこととは異なると思いませんか?
「分かり合う」と言う時、同じ人間としての大きな意味での存在価値を尊重するなら「同意」は不必要ということになります。自分の好み、評価、判断などを超えたところで存在価値を認めるわけですから、相手を好きか否かという個人的な感情とは別のものです。相手に無関心になることなく、相手が与えられるべき居場所を与えるだけです。
自分の近くにいて欲しいと思う友だちなら、ある程度の価値観は共有できる人を選んで良いと思います。万人に存在価値があるからこそ、この世に生まれてきたのでしょう。それを理解した上で、親しくしたい人を選んで良いのだと思います。
あなたが寂しいと感じるのは、同意できないからですか? 価値観が異なることに気付いたからですか? それとも強いと思った絆が解ける気がするからですか?
「こうであればいいのに」という自分の期待はどのくらい介入していますか?
人としての存在価値を認めながら(難しい時もあります)、どの程度の関係を築くかは自分で決めて良いのだと思います。また、人との関係が近くなったり遠くなったりするのは普通のことだと僕は思います。
友人関係や恋愛関係は、約束でも契約でもありません。人がそうであるように、人が作る関係も生き物のようです。
時間と共に、個人的な感情をベースにした距離を縮めたい気持ちや、存在価値を意識した広くフラットな理知的な視点から付き合い方を意識して、相手との距離を決められるのではないでしょうか。
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文 ヨガインストラクター ヤスシ/編集 七戸 綾子