娘の12歳のお誕生日。貰ったプレゼントに心弾ませながら、楽しい夕飯をとり、バースデーケーキを食べ、ゆっくりくつろいだ夜。最後の歯磨きを終えて、家族それぞれの寝室へ向かう時、なぜだか娘の元気が急になくなったような気がして、「どうかした?」と声を掛けました。
「妹っていいよね…」

12歳、年頃の(思春期真っただ中?思春期の入り口?)娘は何か本日言い残した主張があるようです。暖房の消えかかった冷たいリビングで話すより…と思い、久しぶりに私のお布団の中にお招きすることにしました。
「下の子って自由だよね…。私の周りにはさ、下の子とか末っ子が多いんだよ。私の知らないことたくさん知ってて、元気で明るい子が多い。〇〇(自分の妹)だってそうじゃん。」
聞けば、そういう周りの末っ子ちゃんたちは流行に敏感で、兄弟姉妹の影響を受けて、いろんな最先端を知っている。時々そんな話題についていけないもどかしさで、自分にイライラしちゃうんだそう。自分と妹とを比較されて、妹ばっかり褒められて、自分のことを馬鹿にされてる気がする時がある…。そんなことを話し始めました。

私はヨガのインストラクターです。特に産前産後や、児童の発達心理について勉強してきたものだから、こういう悩みに対して沢山の知識を持っています。
「相手をうらやましいと感じたりするのかな?そういう気持ちって近しい人に抱く独特のものなんだよ!そういう感情、相手に抱く嫉妬に似たものっていうのはね、自分の中にもそういう資質や才能があるっていう証拠なんだよ。どういう部分に嫉妬しちゃうんだろうね?」なんて諭してみたり、
「そういう気持ちに気づいて、話せるってすごいね!」なんて励ましてみたり、
「わかるよ~、イラついちゃうよね~ママもあったな~そんなこと。」なんて同調して共感してみたり、
「今日はとことん吐き出しちゃいなよ!」なんて導いてみたりしました。

「ありがとう聞いてくれて。少しすっきりした気がするけど、まだ半分すっきりしていない気もするな…。でも、ありがと、大丈夫!」

一生懸命彼女の悩みに応える私に対する彼女の気づかいがありました。話を切り上げて、自分のベッドに戻っていこうとするから、もう少し一緒にいようと誘いました。腕枕をして、黙ってみました。
「…ダサいよね~。こんなこと文句言ってるのとか、ダサいよね~。」
彼女は、カッコよさに憧れるお年頃。一生懸命葛藤しているんでしょうね。ママに話してみたけど、話せば話しただけ、自分のことダサいって思ってしまう。

12年前の今日この日に生まれた小さな小さな命が、こんなふうに12年後、私の腕の中でメソメソ泣いているだなんて、あの日想像もしませんでした。あの日と同じアングルで娘を見つめているけれど、大きく成長した娘。あの日と同様に泣いているけど、全く違う。でも、あの日と一緒。
「あの日真っ赤っかでくちゃくちゃの赤ちゃんだったあなたが、今ママの隣で、自分のことダサいって言いながら泣きべそ書いてる。あの日想像だにしなかった今日があるよ。なんか感動しちゃう。ママ、あなたが今とっても美しく見えるよ。あなたには悪いけど、ママは今信じられないくらい幸せ。」と言って泣いてしまいました。

…すると、あら不思議。
娘はすっきり顔を晴らして、「あ~気が済んだ!!」と、幸せそうに眠りについていきました。

12歳の多感な時期。いろんな情報と感情が混ざり合い、感受性・感性の高まる難しい時期。私も勉強してきたいろんな知恵を使って応戦しようと思っていたけれど、そんな理屈より大事なお薬がありました。「愛」なんて言葉で片付けるとチープかもしれません。でも、それ以外に言葉がなくて。
そんなことを先日、ママ友に話していましたら、
「普通だったら、な~に泣いてるの…って済ましてしまいそうになるところを、視野を広げて感じ取れるのって偉いな~」って褒められました。なるほど、ヨガの恩恵はこんなところにもあるのか!と気づきました。

私たちの目に見えてる世界、現象というものは一時的で一部分的なもの。その見えている世界だけに心は振り回されて、本質を見失いやすい。その本質を捉えていくことを私は毎日ヨガで練習しているのかもしれない。自分の内側に目を向け、いらない力を脱いでいきながら、必要な力を研鑚していきながら、大事なことに気づく感度をあげているのかもしれない。

ヨガ・スートラという聖典にこんな文言があるんです。

Ⅱ‐46 アーサナ(坐法)は、快適で安定したものでなければならない
Ⅱ‐47 自然な性向である落ち着きのなさを減じ、無限なるものに瞑想することによって、アーサナ(坐法)は修得される
Ⅱ‐48 以後その者は、二元性によって乱されることがない


アーサナという体操を練習しながら、安定した体と心を養っていくこと。淡々と練習しながらそれによって、二元性に惑わされることがなくなっていく。二元性…「良い・悪い」とか、「好き・嫌い」、「暑い・寒い」という、一時的で一部分的な世界に身を置く私たちだからこそ、それが全てではないことに気づいていくこと、知っていくことというのは、ヨガの世界観ならではなのではないかと思います。

娘が今、自分をカッコ悪いと言いながら、でも真剣に傷つき泣いている現象そのものは一時的なことだけど、そういう時を過ごし成長し、いのちが育っていくという全体を見てみると安心して泣かせてあげられるのではないかと思うんです。ただ泣いているのを放っておくのと、ちゃんと泣かせてあげるのとは違う。…と私は思うのです。だって、素晴らしい世界にいるんだっていう自信「自分を信じる」力になると思うから。

「愛」の対義語は「無関心」。
12歳の心に寄り添って。気を遣うんじゃなく、抱きしめて。
12歳じゃなくても、何歳だって。大人だって子どもだって。
愛という言葉はチープかもしれないけれど、一番のお薬だと思います。

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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子