牡鹿半島の牧浜(まきのはま)を訪ねた翌日は、石巻市内と、女川をめぐりました。
朝いちばんに伺ったのは、元個人医院だった3階建ての建物が、震災時に「石巻市災害ボランティアセンター」として使われていたところ。スタジオ・ヨギー京都の店長、松本千矢さんは、震災の1年半後に、当時働いていたパタゴニア鎌倉で「ボランティアインターンシップ・プログラム」に名乗りをあげ、ここを拠点に1カ月間滞在し、活動していたそう。電話番やボランティア受け入れの予約など事務作業や、カーシェアリングの車を運転して届けるなど多様な仕事をするうちに、緊迫感のつづくボランティアさんに向けて、また仮設住宅の集会所で被災したお年寄りに向けて、ヨガクラスを提供していたそう。
「ずっとせまい仮設の部屋にこもっているので、久しぶりに運動した、と、涙を流して喜んでいただけたことを、今も覚えています」と、千矢さんは話した。

建物のすぐ脇を北上川が流れている。デッキから青空がのぞき、気持ちよさそうに瞑想するヨガインストラクターのリー先生。千矢さんもこの場所がお気に入りでよく休んでいたそう。

屋上で、左から今回の案内をしてくれた、OCICAを立ち上げたつむぎやの友廣裕一さん、リーさん、千矢さん、つむぎやの斉藤里菜さん。斉藤さんは、OCICAを機に石巻に移り住んだ、笑顔が弾けるパワフルな女性。

今回、千矢さんが石巻を訪れることを知って、長野から駆けつけた”助さん”こと吉村誠司さん。ふだんは消防団で活動をしている。東京に住んでいた頃、阪神淡路大震災をきっかけにボランティアをおこなうようになり、娘さんが小学校に上がる頃、長野に引っ越した。東北の震災時には、翌朝4時には石巻に駆けつけていた。災害時には情報が錯綜する。その情報を整理し、必要な人材を必要な支援活動に送るよう、マネジメントをおこなっていた。OPEN JAPANという、寄付を集めてプロジェクトを立ち上げた。それは、日本全国にネットワークを持つ団体や個人の集まりだという。「誰かのお役に立ちたいわけじゃなく、知り合ったひとりひとりの方の喜ぶ笑顔が見たい。私たちの原動力はその絆を大切にしています。」という思いで、現地の方や、関わるみなさんと話し、それぞれの特技を生かしながら活動をしている。

スートンとローリーがアイコンの、カーシェアリングを立ち上げた”タケさん”こと吉澤武彦さんとも帰り際に会えた。高校生のときに姫路で阪神淡路大震災を体験した。以前はサラリーマンをしていたが、震災を機に石巻に移り住み、長期にわたってカーシェアリングが続けられるよう、今も活動を続けている。(現在はOPEN JAPANの代表も引き継いでいる)

次に訪れたのは、呉服屋の亀七さん。なぜ呉服屋さん?と思うかもしれませんが、奥には震災時につくったコミュニティカフェ「かめ七」があり、「かめしち」タオル(およそ200円)を買えばだれでも利用できる。懐かしい雑誌がたくさんそろっているのは、地震のときに屋根裏にたくさん見つかったそうで。

気さくなご主人米倉さんと奥さんと記念写真。リーさん、千矢さんが手にしているのは、ネパール発のナチュラル化粧品ブランド「ラリトプール」のパンフレット。発展途上国で女性にメイクをするワークショップ「コフレ・プロジェクト」を通じて、女性が本来持っている自信や尊厳を取り戻すきっかけづくりをしていた向田麻衣さんが、新たに立ち上げたブランド。ここは、彼女のおばあさまのおうちだったのですね。

写真を撮ろうとすると、ご主人が撮る、という撮影合戦が最後まで続き…。

続いて、ISHINOMAKI2.0のオープンシェアオフィス「IRORI」を訪ねた。おしゃれなスペースには、オリジナルデザインのグッズが販売されていたり、もちろんOCICAも販売されていた。ISHINOMAKI2.0は、東日本大震災後に、震災前の町に戻すのではなく、新しいまちづくりをするために、立ち上がった。地元の若い商店主やNPO職員、建築家、まちづくり研究者、広告クリエイター、Webディレクター、学生など様々な職能を持つ専門家が集まって、石巻に元からあるリソースを拾い、全国の才能と結びつけて今までになかった新しいコミュニケーションを生み出しているそう。

その後、町を散策していると、カラフルなデザインのショップが目に付いた。

日常の中に、ふと、津波の爪痕を目にする。聞いて知っていたとしても、目の前の建物に印がついていると、怖さの実感がともなう。

石巻の町の中央に位置する日和山にある鹿島御児神社に行ったとき、ふっかふかの猫が現れ、きさくなお母さんが抱っこできるよーと抱えさせてくれた。

お守りを買おうと呼び鈴を押したら、さきほどのご婦人が出てきて、お守りや神社の云われをとても丁寧に教えてくれた。聞けば、彼女は神主さんだった。女性の神主さんに会ったのは初めてだった。お礼を言って去ろうとすると、「お元気でいてくださいね~」と声をかけてくれた。ふだんならなんとも思わない挨拶が、ずん、と胸に響いた。神主さんは、本当にそう願っている、と思った。

神社から見えていた、一面野原のような場所。住宅地だった町がまるまる消えてしまったのを実感したのは、火災が起こり、今は使われていない小学校を訪れたとき。風がとても強く、お線香に火を灯すのに難儀した。

その後、昼食をしに女川に向かった。テレビのニュース映像で何度か目にしたことのある高台の病院の入り口にも、津波のあとがあった。この高さを超えてきて、さらに建物の2階に届こうとしていたとは…。

実は、前夜、スーパーで買い物していたときにばったりと会って、つむぎや友廣さん、斉藤さんが話し込んでいた八木さんがオープンしたばかりの「ゆめハウス」にランチで訪れた。八木さんは、地元のお母さんたちに声をかけ、地元の食材を使ってボリュームもしっかりある美味しいごはんを提供している。

ここで使われている家具は、オリジナルにデザイン、製作されたもの。若いデザイナーさんが一人でつくっているそう。

女性はなにか新しいことを始めたり、人から習ったりすることに抵抗はないけれど、男性たちは、震災後、活躍の場を失っていたという。八木さんは、そんなお父さんたちに、お正月のしめ縄づくりを依頼したり、畑作りを依頼したりしながら、活躍の場を増やしていったそう。

私たちがゆめハウスを訪れたとき、庭先の畑で作業するお父さんたちの姿があった。畑に入らせていただくと、いちぢくがたわわに実っていた。お茶っこでいただいたいちぢくもこうして育てられているのですね。

ゆめハウスの表札の横ではにかむ八木さん。生まれ育った町、女川で震災後、女性たちが楽しく活躍できるような仕事を生み出して来た。そしていま、八木さんのお父さん・お母さん世代が集える場所を創出している。この日も、タウン誌が取材に訪れていた。
八木さんが様々な活動をする源はなんだろう。こんなことを話してくれた。
「人は、悲しみよりも、楽しいことが上回る、笑顔になれると思っているの。楽しめる人を増やしたいんです。こもりっきりの人が出かけるきっかけになればいいな、と。そんなふうに人を変えるのは、けっきょく人なんだと思う。モノやお金で変わるわけじゃない。他県の人が会いにくると、忘れているわけじゃない、思ってくれているんだ、というのが伝わります。はるばると来てくれているのだからね」。

前夜、石巻の町を車で走ると、こんなシャッターのメッセージがあった。

八木さん同様、OCICAをはじめ、つむぎやで活動する友廣さんも言う。
「会ってみたい。やってみたい。というような、人を動かすのはポジティブな力だと思う」。

石巻から仙台に向かう高速バスの窓から。見送ってくれた、つむぎやのみなさん。左から、西村宏貴さん、斉藤里菜さん、友廣裕一さん。OCICAが作られている場所や作っているお母さんたちに会わせてくれただけではなく、牧浜、石巻、女川で、震災後の日常を取り戻してきたたくさんの方に会わせていただいた。またみなさんの笑顔に会いに行きたい。

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写真&文 七戸 綾子