京都・銀閣慈照寺(以下銀閣寺)を訪れたのは2月のはじめ、雪が舞う朝のこと。慈照寺研修道場に花をいける珠寳さんの姿があった。清められた空間で道具を所定の位置に揃える。花瓶の正面に座り、選んだ花の姿をいろいろな角度から眺めては、小刀で枝元の処理をして花留にさしていく。その動きは本当になめらかで、つい見とれてしまう。

見えないところを大切に。そう花が教えてくれる

「いけ花は、命ある草木を地面から切り取り、いったん殺してしまいます。それを人の手でどれだけきらきらさせてあげられるかが、お花をする人の役目だと思うんです。根っこから命が上がっているように、花瓶の水際に心をつけるのがいちばん大事。空に向かって伸びる枝や花は自然から完璧な姿をもらっているので、形を変える必要はほとんどありません」。

立ち上がりを生き生きさせるには、花瓶の下の部分をどう整えるか、つまり花留を正確に置き、枝の下を適切に処理することが大切。私たちは花瓶の上のみを眺めてしまうが、花瓶の上が美しいということは、見えない花瓶の中の部分が美しいということ。それは生き方にも言えるのではないか。花から教わることはとてもシンプルだ。

「お料理と同じで生ものを扱っているので、できるだけ短時間で仕上げたい。そのためには花留をきっちり作ること。じつはいけ花は、なたや小刀などの刃物道具を正確に扱えるというのがとても大事なんですね」。

銀閣寺では、いけ花の花留には剣山を使わず、稲藁を束ねたコミワラや木の枝、竹など自然の素材を用いる。上の写真のコミワラは立て花用の花留。秋に収穫した稲の藁を天日に干し、ごみなどを掃除して小束にくくり、冬の冷たい水に毎日さらしてあくをぬく。小束をそれぞれの花瓶の太さに束ねたものを花瓶の丈に切り揃える。

「剣山などなかった時代のやり方です。太い竹から華奢な草花まで、ぴしっと留めることができる。何年も使え、最後は細かく刻んで畑にまきますから、手間なようでまったくむだがない。昔の人はよく考えてくれたと感心します」。

いけ花の源流を知りたくて、足利義政公にたどり着いた

珠寳さんがいけ花の世界にのめり込んだのは31歳のとき。神戸に生まれ、20代の終わりに阪神淡路大震災を経験すると、なんとなく好きでやっていた花を強く知りたいと思った。

「それまで当たり前にあったことが、ある日突然なくなるんです。やっぱり不安で、以前の姿を想像して悲しくなったりする。そんな心境で、私はたまたま花と向き合えた。理屈ぬきでぐっとそこに集中していきました」。

もともと自分が入門していた流派、無雙眞古流の花を知りたい。相談したはさみ屋の主人のすすめで故岡田幸三さんを訪ねると、「それならいけ花のはじめ、足利義政公のころの花から勉強しないとわからない」とのこと。「ああ、なるほど」と、本来の花の勉強が始まった。

銀閣寺の花。それは、銀閣寺の前身、東山殿を創建した室町八代将軍足利義政公が築き上げたもの。いけばなの源流といっていい。

「お花は、お茶やお香と同じラインにあり、和歌や能楽の影響を受けていることなどを実感しました。たとえば将軍さまが能の鑑賞をするときは、酒飯、お茶をいただき、そこには香りもあってお花も飾られている。義政公の日常の風景です。義政公と周りの人たちは、座敷を飾る器や道具、床にかける軸や絵、草木にいたるまで上中下の位分けをして、今でいうインテリアの指南書を作ったんですね。昔からお花を摘んで花瓶にさして楽しむことはもちろんありましたが、義政公は空間や道具、季節などに合わせ、きちんと美意識をもって花をながめた。それまでの豪華絢爛な世界から世の中の流れとともに、簡素を美とする価値観を作った。それがいまだに日本の美のスタンダードです」。

上の写真、珠寳さんがいる畳の部屋は、義政公がプライベートな空間として最も心を入れた東求堂の同仁斎。500年以上前のデザインは全く古びず、お茶やお花、お香をする人にとっては、義政公が書斎として使っていたこの4畳半が聖地でもある。

花道場から研修道場へ。銀閣寺の花方として

師匠に教わったのは、具体的な花のいけ方ではなく、もっと根本にある大切なことだと珠寳さん。水や命の大切さ、道具の扱い、切る枝の見極め、そして師匠を超えていくことで伝統は続くということ。

「師匠の稽古は私がこれまで生きてきた31年を全否定することから始まりました。それは自分のちっぽけな価値観とか考え方の殻から一歩外に出なさいよ、ということだったと思う。師匠の言葉が本当に自分の中にすとんと落ちるようになったのは、師匠が亡くなってからですけどね」。

師匠の元で花の勉強をはじめて数年後、当時の銀閣寺執事長にレポートを提出すると、「ほなちょっと住職のところに行こうか」と新たな動きがあった。義政公が確かな審美眼で作り上げた東山文化を現在に継承していくことが大切だという皆の思いが重なり、2004年に銀閣寺に華務係という新しい部署が新設される。珠寳さんは初代花方として銀閣寺の職員になり、同じ年に花道場をスタート。20名ほどで始まったいけ花講座が口コミで広がり、そのうちに道場が新設され、2011年に慈照寺研修道場が開場。講話と坐禅をはじめ、現在のいけ花、和歌、香道、水墨墨蹟、美術工芸、中世芸能、写経・書、などさまざまな講座があり、全国から希望者たちが通ってくる。

銀閣寺の花方という責任の重圧に負けそうになり、和尚さんに相談したときは、「あ、わかったわかった、やめてまえ、そんな覚悟やったら。1回死んでこい、とどなられましたよ」と笑う。「まあ死んでこいということは、全部捨ててこいということなんですけどね。だから師匠にも和尚さんにも同じことを教わっているんです。でも自分の中でいろいろ固定していっぱいになって、自分で苦しんでいるんですよね。師匠から、和尚から、自然から、生きる知恵を教わっています。

珠寳さんのお寺での1日は、朝の本堂まいりから始まり、掃除をしながら朝日を浴びて、畑で虫や蛙の声を聞きながら花を摘み、花を飾る。その後は講座の企画や原稿書きといった事務仕事をしたり、献花に出かけたり、いけばな講座がある日は全国から訪れる生徒さんと花を共にする。海外に招かれることも多い。
「私にとってお花をするというのは、掃除や事務仕事、ご飯を食べるのと同じ位置にあって、特別なことではないんです。でも花が軸にあるから、世界中のいろいろなものとつながれます」。

花の名前など忘れて、目の前にある本当の姿を見てみると…

「いけばなの最終的なデッサンは、頭に置かないようにしています。お花は人と同じで、10あったらみな全然違う表情をしています。それをわざわざ自分のイメージに合わせる必要がないんですね」。

花は、正面はもちろん横顔も、後ろ姿もきれいだし、ときには散った後の姿も美しい。椿でもバラでも、自分の持っているイメージで固定してしまうとそこから動けなくなって、目の前にある本当の姿が見えなくなる。

「花の名前なんて忘れて、それぞれの花が持つ表情に合わせてこちらを動かしていくと苦がないんです。苦しんでいるのは、自分で自分を固定しているから。花は生きてますからどんどん動いていくでしょ。時間は1秒だって止まってくれません。それなら自分も一緒に花のように動いていけばいいのだと思っています」。

写真 安河内 聡 /文 増本 幸恵