550年間父たちが守ってきたものを学び終えたら、新たな時代に挑戦したい
自分なりのプロセスを経て、辿りついた十六代目の道
「両親は、弟に後を継ぐことを強いませんでした。私や妹に対しても『好きなことを学び、仕事にしなさい』というスタンスで、私たちが店を継がなくても『なんとかなるから』と。そのせいもあり、弟が店を継がないと知っても、当時の私はどこか他人事でした。ただ、もしかしたら心のどこかには、継ぐのは私なのかもしれない、というのがあったかもしれません」。
毎日楽しくて、忙しくて。20代はNYがすべてでした
「写真を撮って現像して、プリントすることによって、記憶ともう一度向かい合う。その感覚がとても好きで。しかも知れば知るほど深くて、20年経った今でもまだまだ知りえない」
高校を卒業してサンフランシスコの美大に行ったが、写真を学ぶならニューヨークということを知り、ニューヨークへ移り住んだ。住んでみると碁盤の目の作りが京都に似ていて、しっくりきてしまったという。どこへも徒歩や自転車で行けるのも、街で知り合いに偶然会う感覚も京都と同じ。パリやロンドンと違って、何も考えないで歩いていても目的地に辿りつくことができた。
ニューヨークの大学で写真を学んだ後は、ニューヨークを拠点にしながらも、ファッション写真を中心に、パリやロンドン、日本の雑誌やカタログの仕事もするようになった。それでも、ニューヨークを離れようとは思わなかったという。「9.11」を経験したあとでさえも。
「毎日が刺激的で、楽しくて忙しくて。20代は、ニューヨークがすべてみたいな生活を送っていました」
でも29歳になったとき、ふとニューヨークでの10年を振り返った。確か10年前は世界を旅して写真を撮りたいと思っていたはず。
「このままニューヨークにいたら、この街に満足して世界を見られない」。
そう思わせたひとつのきっかけが、27歳の時に初めて行ったアイスランドだった。きっかけはアイスランド人の友人がいたという単純なものだった。だけど、ニューヨークとは真逆の、アイスランドの何もない自然のなかにいると、もうひとりの自分に気づかされたという。そう、京都で育った自分。
「京都はちいさいけれど、確かに街。でも家の小さな庭からお寺まで、自然がとても近くて、壁ひとつ隔てただけで、違うエネルギーが流れている。そういうところで育った自分を思い出したんです。それが、私にとってはとても大切なことなのだと」
当たり前のように育った京都の街や家の魅力に、あらためて気付かされた
「もしかしたら先祖の声に引っ張られたのかもしれない。それまでもずっと言われていたのかもしれないけれど、あるとき、私自身もその声を聞こうというスイッチが入った気がします」
季節によって変わる花やしつらえ、建物自体の意匠や、障子を通した光。誰のためでもなく、旬の食材や花で季節を祝うという日本の文化は、アメリカにはないものだった。
守るべきものと新しいものを、次につないでいく
「祖父はとても喜んでくれたけれど、その一代前だったら、きっと女の私が継ぐことはできませんでした。去年父が亡くなり、私が当主になりましたが、外から見れば、『老舗で、京都の真ん中で、女の人で』と思う人も少なくないと思います。もちろん、京都の老舗はまだまだ男性の店主が多いのも事実ですが、温かく迎えられています。それに渦中にいると、とにかく目の前のことをやっていくしかない。550年の重みも、実はそれほど現実的には感じられなくて、父や祖父がやってきたことを次につなぐのが私の役目だと思っています。」
それに昔から、どの店も裏で支えていたのは女性たちだった。尾張屋を裏でしっかり守る祖母や母を見てきた亜里子さんにとって、前に出るか出ないかの違いはあっても、やるべきことに違いはそれほどないという。そして今は、母と叔母、妹も加わり、女4人で店を守っている。
京都の店や文化が守られているのは、老舗が横のつながりで助け合っていることも大きいそうだ。お茶にお香、出汁や小豆など、代々の老舗の付き合いがあって、それぞれに老舗ならではの厳しい目をもっているからこそ、安定した質を保ち続けてきている。
「この時代にいることにとても感謝しています。違うフィールドにいる人とコラボレートしたり、新しいものを作ったり。父に言われたことは、老舗を『守るだけではだめ』だということ。でも、『昔を理解しなければ、新しいものは作れない』とも言われました。まだ私には学ぶべきことがたくさんあって、土台づくりをしている段階です。父たちが守ってきたことを理解したら、新しいことをやりたいと思う。ここまで、私は私なりの道筋で辿りつきました。いつかそれが新たな形になりはじめて、私なりの尾張屋の時代を作れたら、きっともっと楽しいと思います」
写真 野頭 尚子 /文 横山 直美