自分なりのプロセスを経て、辿りついた十六代目の道

京都で室町時代から続く老舗「本家尾張屋」。創業は寛正六年(1465年)、日本最古の蕎麦屋と言われている。菓子屋として始まり、江戸時代中ごろに禅寺からの依頼で蕎麦切り(細く切った麺としての蕎麦)を作るようになった。今も店先では蕎麦餅や蕎麦板などのお菓子が並ぶ。

この550年もの老舗の看板を現在守っているのは、昨年、十六代目当主となった稲岡亜里子さんだ。亜里子さんは、十五代目当主、稲岡伝左衛門さんの長女としてこの家に生まれた。尾張屋の当主は、蕎麦屋を始めた江戸時代から代々“伝左衛門”の名を継いできた。つまり当主はずっと男性だったのだ。亜里子さんには妹弟がいて、妹は現代アーティスト、弟は海外で映像関係の仕事をしている。亜里子さん自身も、当主でありながら写真家としての顔をもつ。
「両親は、弟に後を継ぐことを強いませんでした。私や妹に対しても『好きなことを学び、仕事にしなさい』というスタンスで、私たちが店を継がなくても『なんとかなるから』と。そのせいもあり、弟が店を継がないと知っても、当時の私はどこか他人事でした。ただ、もしかしたら心のどこかには、継ぐのは私なのかもしれない、というのがあったかもしれません」。

毎日楽しくて、忙しくて。20代はNYがすべてでした

「好きなことを学んで自分の力、職にしなさい」と育ててくれた両親の言葉どおり、亜里子さんは自分が学ぶべきことを探しに、17歳で渡米した。西海岸の高校で、音楽やダンスなど、文字どおり様々なことをやっていくうちに、写真と出会う。
「写真を撮って現像して、プリントすることによって、記憶ともう一度向かい合う。その感覚がとても好きで。しかも知れば知るほど深くて、20年経った今でもまだまだ知りえない」
高校を卒業してサンフランシスコの美大に行ったが、写真を学ぶならニューヨークということを知り、ニューヨークへ移り住んだ。住んでみると碁盤の目の作りが京都に似ていて、しっくりきてしまったという。どこへも徒歩や自転車で行けるのも、街で知り合いに偶然会う感覚も京都と同じ。パリやロンドンと違って、何も考えないで歩いていても目的地に辿りつくことができた。

ニューヨークの大学で写真を学んだ後は、ニューヨークを拠点にしながらも、ファッション写真を中心に、パリやロンドン、日本の雑誌やカタログの仕事もするようになった。それでも、ニューヨークを離れようとは思わなかったという。「9.11」を経験したあとでさえも。
「毎日が刺激的で、楽しくて忙しくて。20代は、ニューヨークがすべてみたいな生活を送っていました」
でも29歳になったとき、ふとニューヨークでの10年を振り返った。確か10年前は世界を旅して写真を撮りたいと思っていたはず。
「このままニューヨークにいたら、この街に満足して世界を見られない」。

そう思わせたひとつのきっかけが、27歳の時に初めて行ったアイスランドだった。きっかけはアイスランド人の友人がいたという単純なものだった。だけど、ニューヨークとは真逆の、アイスランドの何もない自然のなかにいると、もうひとりの自分に気づかされたという。そう、京都で育った自分。
「京都はちいさいけれど、確かに街。でも家の小さな庭からお寺まで、自然がとても近くて、壁ひとつ隔てただけで、違うエネルギーが流れている。そういうところで育った自分を思い出したんです。それが、私にとってはとても大切なことなのだと」

30歳を機にニューヨークを引き払い、日本をベースに仕事と旅をするようになった。仕事で撮る写真も、ファッションから、カルチャーや旅へと変えた。そして、アイスランドでの写真は、今も一連のシリーズとして、亜里子さんのライフワークなっている。

当たり前のように育った京都の街や家の魅力に、あらためて気付かされた

亜里子さんの写真家としてのスタンスが固まってきた頃、ふと、店を継げるような気がした。もちろん、両親を喜ばせるためだけにできる仕事ではない。ましてや、写真や自分を犠牲にしてはできなかった。ようやく、店をやっても写真家としての自分をなくさない自信を感じとったのだ。
「もしかしたら先祖の声に引っ張られたのかもしれない。それまでもずっと言われていたのかもしれないけれど、あるとき、私自身もその声を聞こうというスイッチが入った気がします」

そして、この店の価値をわかるようになったのも、海外から戻り、ある程度の年齢になってから。子どもの頃は、かくれんぼや鬼ごっこをした遊び場で、当たり前の空間だった。
季節によって変わる花やしつらえ、建物自体の意匠や、障子を通した光。誰のためでもなく、旬の食材や花で季節を祝うという日本の文化は、アメリカにはないものだった。

「それに蕎麦は、日本が誇るソウルフードだし、体にも心にもいいパワーフード。300年前に東福寺で製粉機を中国から持ち込んで、それから京都では蕎麦が禅宗と密接につながって長く生きているんです。そんな歴史や文化と自分の家が繋がっているのも、この歳になってあらためて気付かされた魅力のひとつです」

尾張屋では今も月に一度、先祖供養のためにお経をあげにお坊さんがやってくる。店にお経が鳴り響く独特の情景も、老舗尾張屋ならではのこと。

守るべきものと新しいものを、次につないでいく

亜里子さんが店を継ぐと決意したのは、十四代目の祖父がまだ存命のときだった。
「祖父はとても喜んでくれたけれど、その一代前だったら、きっと女の私が継ぐことはできませんでした。去年父が亡くなり、私が当主になりましたが、外から見れば、『老舗で、京都の真ん中で、女の人で』と思う人も少なくないと思います。もちろん、京都の老舗はまだまだ男性の店主が多いのも事実ですが、温かく迎えられています。それに渦中にいると、とにかく目の前のことをやっていくしかない。550年の重みも、実はそれほど現実的には感じられなくて、父や祖父がやってきたことを次につなぐのが私の役目だと思っています。」
それに昔から、どの店も裏で支えていたのは女性たちだった。尾張屋を裏でしっかり守る祖母や母を見てきた亜里子さんにとって、前に出るか出ないかの違いはあっても、やるべきことに違いはそれほどないという。そして今は、母と叔母、妹も加わり、女4人で店を守っている。

「たくさんの人に支えられているし、京都ならではの老舗の繋がりも大きいですね。私は20年もの間、京都を出ていたぶん、他の老舗の方から店のことや祖父母のことを教わることも多い。私はここではニューフェイスなんです。それでもやっぱり、子どもの頃から知っていて、老舗のあとを継ぐもの同士だからわかることもある。それに、外を見てきて、この歳だから素直に話を聞けることもあります。20代の頃だったら、できなかったでしょうね」

京都の店や文化が守られているのは、老舗が横のつながりで助け合っていることも大きいそうだ。お茶にお香、出汁や小豆など、代々の老舗の付き合いがあって、それぞれに老舗ならではの厳しい目をもっているからこそ、安定した質を保ち続けてきている。

一方で、京都では新しい繋がりもでき始めている。外国人を含め、京都出身ではない人もここに住み、仕事をし始めている。そんな新しい繋がりを受け入れるのも、亜里子さんの世代からだ。特に、亜里子さんは海外の友人も多く、食べ物とは違うモノづくりをしている人も多い。
「この時代にいることにとても感謝しています。違うフィールドにいる人とコラボレートしたり、新しいものを作ったり。父に言われたことは、老舗を『守るだけではだめ』だということ。でも、『昔を理解しなければ、新しいものは作れない』とも言われました。まだ私には学ぶべきことがたくさんあって、土台づくりをしている段階です。父たちが守ってきたことを理解したら、新しいことをやりたいと思う。ここまで、私は私なりの道筋で辿りつきました。いつかそれが新たな形になりはじめて、私なりの尾張屋の時代を作れたら、きっともっと楽しいと思います」

写真 野頭 尚子 /文 横山 直美