見島には共同負債といって島の農民ほとんど全員で借金を返したという歴史があります。
その当時を伝える「共同一致の歌」という歌で、私の友達は子供の頃、運動会などで踊っていたそうです。

その話を初めて聞いたとき、少しびっくりしました。
島のみんなで借金を返すという発想が、私の中になかったのです。いい話のような気がして少しホロリとしました。

見島は農業も漁業も牧畜もしているので、お米もあれば、野菜もあり、お魚もあり、お肉もあるという豊かな島です。

農民のほとんどと言ったのは、漁民の人たちはこの共同負債には関係していなかったからです。
その理由は、いくつかあるようですが、離島で自給自足を根源としていたところに、貨幣経済になり、そのことに不慣れであったことが共同負債に大きく関係しているようです。

時代背景としては明治の地租改正により租税が現金になった事と、それまでの物々交換から物の売買をお金でするようになった事。
作物さえ出来ればすぐに返せると容易な気持ちで、少しでも良い生活をしたい為に、お金を借りて欲しいものを手に入れたけれど、旱魃や風水害が続いて返済出来ない状態になり、実際は農民の全員が借りていた訳ではないが、保証人となっていた為にすべての農民が借金を持つようになったそうです。

そんな見島の窮状を見るに見かねた県はなんとか見島を再生させようと、借金返済の実績がある厚東毅一郡書記を明治32年に共同負債の監督責任者として島へ派遣しました。
この厚東氏は見島に着任すると島民を集めて「どうしても返さなくてはならない金だから、どんなに辛くとも苦しくとも借金を返す計画を立てよう、返さなければ皆は島を捨てなければならない。共同一致して実行してみようではないか、これをやり抜く力があれば、その先は光が見えて、きっと良くなる」と熱心に激励したそうです。
厚東氏は自ら身を粉にして働き倹約を実行させたけれど、その実行力に反発もおき、夜中、厚東氏の宿泊所に石を投げるものもいたというから、ちょっとドラマのようです。
厚東氏が節約令を出して12年、地獄の生活に足を踏み入れて37年間、ようやく光を見出したのが、明治44年(1911)。

この話を聞いた時、よくよく考えてみると、実は時代の変化の中で、日本の農村で至る処であった話なのだろうと思いました。

そして、島であるということは、運命共同体的なものが存在すると共に、そうしなければ外部に対抗出来ない弱い面も持っているという郷土史家の方のお言葉に、あれ?日本も島国ではないか!と感じました。

この忘れ去られてしまうようなことを、今の時代にも語り継いでいるのは、やっぱり、見島です。

「共同負債」という言葉、そして「共同一致の歌」なにしろ歌の名前がすごいです。
償還記念10周年式典後より唄い始めたと言われ、島の全員が唄う事にし、今に至るということです。
来月はこの共同負債の歌詞を載せようと思います。

写真&文 野頭尚子