先日、駅の改札で、偶然再会した友人同士と思われる人たちの会話を耳にしました。2人とも急いでいたらしく軽く会話したところで、別れ際、とても丁寧に「また、お会いいたしましょう」と会釈されていました。その姿は、清々しく、挨拶の本来のあり方を見たような気がしました。

最近は、何でも短い言葉にする傾向が顕著だと思います。簡略化することは、誰にでもわかりやすい、誰にでも馴染みやすいという素晴らしい利点があります。でも、本来の意味が薄れることがある、そのシンボルの本質から離れてしまうことがあるかもしれないというのも事実です。

別れ際「またね」と言う時、「また会いましょう。それまでどうぞお元気でお過ごし下さい。」という相手を想う気持ちが含まれていたり、「バイバイ」と言う別れの挨拶の語源は“God be with you”、「神と共にありますように」「神のご加護がありますように」が元々の意味で、それが変化して“Good-bye”、それがまた短くなって「バイバイ」になったそうで、やはり相手の幸せを祈る想いが含まれています。

食事の時の「いただきます」と手を合わせるのは、「命を頂きます」という自然界の恵みに感謝する心が現れています。

挨拶など型になっているものや、簡略化されているものの元に触れることは、物事の本質を理解するのに大切なことだと思いますし、子育てにおいても、常に意識したいことだなと思っています。

ヨガのクラスでは、たいてい胸の前で手を合わせて挨拶することから始まります。ヨガの言葉では、「ナマステ」と言います。

ナマステと聞くと、インドの言葉で「こんにちは」に相当すると理解されている方も多いと思いますが、
ナマス=礼拝する、敬意を現す、
=あなた、あなたに存在する内なる光
という言葉からなり立っていて、「あなたの内側に(私と同じ)光を見ます、その光を敬います」という意味が込められています。

光とは、美しく輝くもの、生き生きとした生命の輝きとも捉えるができ、また光が見えるということは、自分の中にも同じエッセンスがあるからこそ認識できると捉えることができます。
「あなたに内在する光を見ることが出来て、自分の中にも美しい光があることを思い出しました。そのことを嬉しく思います。ありがとうございます。」
クラスが始まる時、胸の前で手を合わせると心安らかな気持ちになるのは、そんな精神性と繋がるからなのでしょう。

忙しい毎日だからこそ、スタジオに来てヨガをする、あるいは、ほんの少しでもご自宅で静かな時間を持ち、胸の前で手を合わせることが出来たなら、内側の光を通じて、この世界に存在する様々な美しい輝きに気づけるのではないでしょうか。

ヨガの時間がもてないときも、短い挨拶のなかに込められている意味を思い出して、どんな場面でも心を込めて言葉を発することができたら、その瞬間瞬間を愛おしく感じられるでしょう。

文 ヨガインストラクター ユウ