すべり台を逆行する理由~ルールで括れない個性と向き合う~
vol.11
あなたはそういう子でしたか?
すべり台の上でなかなか滑って降りていってくれない子どもを見たことはありますか?
自分の子が次を待っていたとしたら、ムッとしますか?
そんな子達が群がっているのに、そこへ登っていこうとする、より小さな子を見たことがありますか?あの子の目は、何を見ているのでしょう。
人間って、今の自分の能力のもう少し上のレベルを目指すんだそうです。少しのストレス、負荷が加わるからこそ、そこに挑み、そして進化(成長)していく。
・・・と言われたら、子どものすべり台の遊び方に、ものすごく興味がわきませんか?
はしごのような階段をのぼって、腰を下ろしてすべる。すべり台の定義。
でも子どもは、ずり落ちながらも手と足を使って、そのスロープを登りたいんです。
その方が、“ぼく”を感じられるから。
実際にスロープを登る行為には、潜在的に腕の筋力を鍛えるためだったり、足裏の感覚の発達を促しているとも言われています。
スロープをてっぺんまで登りきった英雄たちの顔。てっぺんから見る景色はきっと素晴らしいんでしょう。所狭しと次々に英雄仲間は増えていきます。そして、そのキラキラ眩しい英雄たちを羨望の眼差しで見つめ、果敢に挑んでいく小さな子たち。もちろん、ひやひやしますよね。
我が家の長女は幸い、そういうところには近づかない子でした。人気のある遊具や人の群がっているところには絶対に行かない。でも、遠くのベンチに座り、ひたすらに見つめる。やりたいのかな~と思い、何度も「行ってきてみたら?」と声をかけるのですが、首を横に振るだけ。でも、明らかにやりたそうなんです。目はずっと、英雄たちを追いかけているんです。人がいなくなるとやりました。機会を虎視眈々と狙っていました。失敗を人に見せたくないタイプ。
我が家の次女は、なりふり構わず突進していきます。人に迷惑をかけながら出来るまでやり続けるタイプ。子どもひとりひとり、感覚が違う。だから、先に倫理を教えてしまうことは少し残念なことかもしれません。
「必要があって、全体のルールがある。」
もちろんその通りだと思います。
先日、4歳の次女とトランプをしていると、「やったー!!」と言った私に向かって、「やったー!って言っちゃダメなんだよ!!」と娘が言ったんです。「え?なぜ?」と聞いたら、「○○ちゃんに言われたから。」と言うんです。自分が喜ぶことは誰かが傷つくことなんでしょうか。
全体のルール、どこまで頼ればいいのでしょうか。
“ぼく”を感じてはいけないのでしょうか。
そのルールが必要な子もいるかもしれない。だけど、本当にそれがその子に必要なのかを判断してあげるのは、大人の愛だと思うのです。
マザー・テレサは言いました。「愛の反対は、無関心」。
もっと子ども一人ひとりに関心を持って、、その子の目を、心を見てあげてほしいと思うんです。
人には誰にも持って生まれた煩悩(クレーシャ)があるといいます。
赤ん坊の煩悩(クレーシャ)は完全な仮眠状態にあり、我々は赤ん坊をみると、「なんて純真なんだろう!」と思う。でも成長するにつれて、生まれつき備わった傾向が顕在化してくる。無知と、その他の心の中に眠っている煩悩(クレーシャ)は、適当な時期がくると表面化する。
――インテグラルヨーガP.148
スワミ・ヴィヴェーカナンダ師の教育に関する定義はこうです。
「教育とは人間の内にある既存の完全性をあらわにさせることを言う」
経験によってたくさんのものを身に着けていくのではなく、経験によって自分の心に着せている「傾向」をひとつひとつ昇華していくことをヨーガは説いています。自分の煩悩をほどくには、自分が経験することが大切です。
全体のルールが、誰かの完全性をさえぎっているかもしれない。時々、すべり台の逆行する理由を思い出してみてくださいね。
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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子