何かひとつ“無理をして変える”ことで、暮らしが変わるかもしれない
14歳で神道に目覚め、奥深さに魅了されていく
そのときに買い求めたという神棚は、今も故郷オーストリアの実家にある。14歳の、ヨーロッパに住む少年が神棚とは驚くばかりだが、もともと探究心旺盛だった彼の神道への興味はその後ますます増幅していく。
神道は宗教ではなく、生活そのもの
戒律がないということは、自分で善悪を判断するということだ。「私は愚直という考え方が好きです。清く正しく明るく直く。そんな人間臭い部分も神道の大きな魅力です」
日本の歴史は長い。そこで培われたものをすべて日々の生活に活かすのは難しいだろう。「本来の意味ややり方を理解して、肝となるところをはずさなければ、現代の日常や自分のライフスタイルに合うようにアレンジしてもいいと思います。昔の人だって、生活に合わせてアレンジしてきたのではないかと思います。でも何を省略するかは、いい加減な判断ではなかったはず。神社を訪れる人からも何をどうすればいいかよく聞かれますが、私はこう答えます。一番長く続けられそうな感じでやってください、と」
神棚を祀(まつ)ることが、暮らしを変えるきっかけになるかもしれない
彼はほかにも、床の間を例に挙げた。昔の日本は必ず床の間があって、季節に合わせた設えをしたり、花を飾ったりしていたものだ。「意外とそんな風に“無理をして変える”ことで、癒しのようなものにつながっていくんじゃないでしょうか。何かひとつを変えると暮らしが変わっていくというか。神棚を置くのも、そういうきっかけになるかもしれません」
花を飾るために床の間を作ろう、神棚を置くために和室が必要だ、ということでは無論ない。それこそアレンジした上で、長く続けられるやり方を取り入れればいい。
参拝とは神様への「ご挨拶」。想いを込めればそれでいい
「神社や神道は、世界遺産とか重要文化財みたいなことじゃないと思います。“遺された”ものなんかじゃないし、ガラスケースに飾って眺めるものでもない。私は“文化の宝物”だと思っています。日常に取り入れて、大切に継承しなくては。一度なくしたものはなかなか復活できませんよ」
「お参りのとき願い事をしてはいけないと思われている人もいるようですが、そんなことはありません。神様に何かをお願いしてもいいし、逆に何もお願いしなくてもいい。お参り=ご挨拶、ですから」
神社が神聖な場所であることは間違いない。歴史的、建築的に価値があることも自明の理だ。でも、そこに堅苦しい戒律はないし、神を信じて祈りなさいと強要されることもない。必要なのは、人々が敬い続けてきた場所を大切にしよう、という“想い”だ。
「その想いがあれば、境内でお子さんが遊んだって失礼にはあたりません。むしろ神様はにぎやかなのがお好きですから」それはとても寛容で、いい意味でゆるくて、親しみがわく感覚ではないだろうか。地域のコミュニティの幸せにつながっていく場所、それが神社なのかもしれない。
もっと気軽に神社を訪れたいと思った。
写真 SHIge KIDOUE /文 Kaoli Yamane