島の恵みが授けてくれた『石垣島ラー油』と結婚10 年目の子ペンギン

もくもくの雲に、広く美しい海。気持ちのいい島風に誘われて、島に何ヶ所かある、辺銀家お気に入りビーチの1つに案内してもらった。沖縄県石垣島。夫婦の物語のはじまりは、東京からこの島への移住から。「今年でもう15 年、早いねぇー」青空のようなスカッとした笑顔で愛理さんが振り返る。辺銀さん夫婦は、あの流行語にもなった「食べるラー油」の原点である『辺銀食堂の石垣島ラー油』(以下、『石ラー』)の生みの親である。

中国生まれの暁峰さんが、東京はちゃきちゃきの江戸っ子の愛理さんと国際結婚して帰化。「辺銀(ぺんぎん)」という、日本で唯一の名字になった夫婦は、石垣島に居を移すと、身も心もパワーアップ。料理するのも食べるのも大好きなふたりが、島の滋味深い食材や食べるものが命になる「ヌチグスイ(命の薬)」という教えに触れて、作り出された愛情スパイスが『石ラー』だ。そうして『石ラー』を世に出したその年には、夫婦の夢だった店も開店した。どことなく匂う都会のおしゃれさが島の人には敷居が高く感じられたのか、最初お客はパラパラ。けれどカウンターの暁峰さんは、いつもおっとりご機嫌さん。
「だって東京なら絶対できなかった。格安でお店が開けて、ボクらはすごくラッキーだと思ってましたから」と当時を思い出し、またまたニコニコ顔の暁峰さん。
やがて島の食材をアレンジした料理と『石ラー』の独自のおいしさが客足を誘い、店が順調に歩み出した3年目、なんと夫婦は子どもを授かった。結婚10 年目、愛理さん42歳の初産である。

大切なことに集中。手放すことで手にした健やかな日々

誕生した辺銀家の長男・道(タオ)くんは、ただいま11 歳。大地から生まれでたように、たくましく、健やかな少年。目が合うと微笑んでしまう。
そんなタオくん、じつは8ヶ月目の早産で、わずか1キロで生まれた超未熟児だったという。生まれてすぐは何度も心臓がとまりそうになり、小さな体に何本もの管を刺された姿に、親となった辺銀さんたちは身をよじる思いで神様に祈ったという。両親の腕で育てられるまで、生後2ヶ月半も集中治療室にいたそう。
 
そうして子どもを着実に育てるために、仕事はラー油の製作だけ、店は1年育休にしようと夫婦は決意。雑誌やテレビに注目されてきた時期だけに、その休業を惜しむ声も多かったとか。
「もちろんラー油だけをつくって、食べていける見通しなんて全然なかったよ。でも仕事以上に子どもの“命”だったから」と言う暁峰さんに、愛理さんがうんと頷く。
「島の暮らしに慣れてきた頃に、さらに40代ではじめての子育てが未熟児。20代ならすぐに慣れることができたんだろうけれど、新しい環境と価値観へ自分を変えるのに、結局4年かかってしまった。でも大切なことに、じっくり時間をかけて集中できたから、ラー油も子どもも大きく成長できたって、今はそう思えますね」

結局1年の予定が、食堂再開に4年かかってしまったけれど、夫婦は「必要な時間」だったときっぱり。4年のあいだ、本人たちが予期せぬところで『石ラー』は食べた人の口から口へと、島生まれの新しい調味料の滋味は着実に広がっていた。全国から注文が殺到して、「半年待ち」続きの大ブレイク。スタッフを増やし生産体制が整うまで、暁峰さんはラー油の釜の前で夜なべの日々だったそう。

いっぽう、片手にのるくらい小さく生まれたタオくんもまた、手をかえ品をかえて島の恵みを食べさせ体を育て、みごと健康優良児へ。もちろん体だけでなく心育ても。「どうしても甘くなる」と言いながら、べったりした過保護ではなく。シンプルに「生きる力」を軸にした、辺銀家流の子育ては、親子の距離のとり方にもユニークにあらわれている。
たとえば商談などの用ができれば、赤ちゃんの頃から預けている島のねぇねぇやおばぁにタオくんを託し、夫婦はひょいっと出張へ出かけてしまうことは常なのだ。
「あえて、離そうとしてきたところがあるかな。年をとってからの子どもだから、親がいなくちゃダメな子に育てないように。親に代わる誰かいれば大丈夫なくらい、依存しない人間に育てなくっちゃと思ってきましたね」

その揺るぎのない太さを感じる思考の礎は、おそらく、ふたりの来歴にある。中国育ちの暁峰さんは親戚も一緒に食卓をかこむ大ファミリーのなかで育ち、もの心ついた頃から台所を手伝っていたと言う。また一人っ子の愛理さんは都会でバリバリ働く両親のもとで幼い頃から自活心をつけ、10代から留学しアメリカ本土やハワイで学び、人種も国籍も超えた人脈を育んできたそう。人はそれぞれの物語を持って生きる。自分たちが親になってみれば、たとえ親でも子どもの痛みを分ち合うことはできないと限界も知る。だけどその痛みを乗り越えられる自力を培う術を示すこと、そしていつまでも見守ってあげるということはできる。

そんな夫婦もとで成長しているタオくんは、小学校5年生のこの夏休み、親元を離れてNYの子どもキャンプにひとりで参加して過ごしてきたというから、すでに両親の自活精神をしっかり受け継いでいる。タオくんの将来に言及してみると、「日本人でも中国人でもアメリカ人でも。国籍はどこでもいいよ。だってみんな地球人だもの」そう言って、夫婦は100%の笑顔を向ける。

次なるステップのために。リラックス&ジャンプ

そして現在、リフォームをして再開した食堂は毎晩満席。『石ラー』はまろやかな味わいの万能調味料として定着し、料理人をはじめ全国のファンを魅了し続けている。スタッフも30名と倍増して、経営者となった辺銀さん夫婦の毎日はすこぶる目まぐるしい。育児に仕事に、問題はとめどなくおこり、そのたびに最強タッグのふたりで額を寄せ合い乗り越えてきた。
「うちは私がオジさんで、夫はオバさんって言われてる(笑)。私が遠くまでみて方向を定め、その目標を目指そうと導き、夫はその目標まで、できるなら清潔なソックスにスニーカーを履いて行こうと、身近なこまごまとしたことを決めていく。そんなふうにうまく担当分けができているの」

それにどんな窮地にたっても、ため息はしても、絶望はしない。過去を悔やむより、「今、このとき」を大切にすること。たぶん、それが辺銀さん夫婦の最大の能力なのかもしれない。
もちろん島の自然とともにある生活の恩恵はあれど、あわただしい日常に追われゆく時間はまた別にある。子どものため、みんなのために、自分を脇役にしがち。だから、辺銀さんたちはそれぞれのやり方で自分の心を主役にする時間を大切にしている。

暁峰さんのやすらぎは、コレクションしている大好きなライカと過ごすひととき。かれこれ30年になるライカ歴で、いまや雑誌に取り上げられるほどのコレクターだ。
もともと中国では世界的な映画監督チャン・イーモーのもとでスチールカメラマンとして青年時代を送り、結婚後は東京でカメラマンとして活躍していた暁峰さんにとって、ライカのカメラは自分の感性を表現してくれる相棒である。
「旅のお供にも必ず1台持って行くし、古いカメラは使うことがメンテナンスになるから毎日触ってる。家族が寝静まった夜中にライカを磨きながら、ジーチャカ、ジーチャカというシャッター音を聞いるときが一番リラックスするんだよ」

体を動かすことを好む愛理さんのオフは、ヨガやスポーツ、なにより旅は欠かせない。食いしん坊の好奇心で巡る旅、ソウルシスターズの女友だちと時間を共にする旅。たとえば今年の春は南インドへ、夏はドイツへと、すばらしくグローバルな動きをして、まわりから「空飛ぶペンギン」なんて呼ばれているそう(笑)。
とにかく「よく働き、よく休む」、そのライフスタイルの潔さったらない。迷いがないのは、その休息こそが自分たちの栄養になると、しっかり実感しているから。「仕事漬けの人には、休むのがコワイという人もいる。たぶんその人たちは、もう十分に水甕に水がたまっているのに、使いもせずに貯めつづけてあふれさせている感じなのかもしれないね」と愛理さん。それに、そうした休息は次のステップへ行くための一つのプロセスだとも。

「次のステップにすすむ前に、一度ゆるめて低い姿勢からジャンプするイメージをしているの。高くジャンプするためには、ゆるめなきゃ」
いつか子どもが巣立ったら、世界のいろんな大陸で暮らしてみたい―。大ジャンプの夢が辺銀さん夫婦の原動力なのかもしれない。

写真 垂見おじぃ健吾 / 文 おおいしれいこ