「人」より大きなものが描きこまれている、と感じた『海街diary』(前編)
原作を読んだ時、「これ、俺だな」と思った
是枝裕和監督 一見、四姉妹の楽しいホームドラマなんですが、そのうちの一人、末の妹は腹違いで、実は三姉妹の幸せを壊した人の娘なんだ……っということが、すごくおもしろいなと思いました。そういう子を受け入れて生きていくってどういうことなんだろう、と。それと、すず(※腹違いの末の妹)はどうやって居場所を見つけるのだろう、ということにも興味がありました。まあ、こういうのって大体後付けなんですけどね。
――読んだばかりの時は、もう少し違う感情が?
是枝 不遜に聞こえると申し訳ないんですが……原作を読んだ時、「これ、俺だな」と思ったの。もし誰かが映画にするのなら、それは俺がいい、絶対に、と思ったんです。正直に言うと、そうなんです。だから撮れて本望なんですけどね。それだけにプレッシャーもありましたが、覚悟を決めてやりました。
――映画版ならではのアレンジは効いていますが、「読後感」は原作と同じものを感じました。
是枝 よかった。原作にないシーンもずいぶんあるんだけど、全体の持っている人間観とか世界観は、そんなに壊してないつもりです。
是枝 ……そういうところ(笑)。ああやって声を交錯させるっていう表現はね、マンガではなかなかできないんですよ。だからあれが、「映画で描く家族」だな、と。そこに気づいてもらえるのは嬉しいですね。家族の誰かが何かしている手前とか後ろで、ほかの誰かが何かしてる、みたいなガチャガチャした状況が、家族だから。そういうところが印象に残ると、彼女たちがちゃんとあそこで暮らしているように見える。
「人」ではなく、「街」の日記なんです
大人と子どもの役割の違いというものをきっぱりと描いていて、綾瀬さんの表情とあいまってとても素敵でした。監督は、大人と子どもというものをどのように捉えていらっしゃいますか?
是枝 僕の映画は、この作品に限らず、「子どもっぽい大人」と「大人びた子ども」が出て来るものが多いんですけど、これも原作を読むとそういう話ですよね。幸は子どもの時から無責任な大人……父と母に放逐され、子ども時代を奪われて、大人にならざるを得なかった。娘時代をまっとうせずに、姉妹の中で「母親」にさせられてしまったんです。幸の周りには「自分が大人であらねばならぬ」と思ってくれる大人がいなかったから。そういう中で、幸が、どう「母親」であることを背負うか……というのがこの映画の芯なので、そこをきちんと描きたいと思いました。
是枝 幸とすずが相似形になっている。すずが過ごしている時間を、幸も15年前に過ごしているんです。そこがリンクして見えてくるといいなと。
――いろんなものが、つながっていますよね。幸とすずの関係もそうですし、四姉妹の祖母だったり死んだ人の気持ちもつながっています。
是枝 普段から、半分は、死んだ人に支えられている、自分たちが死んだ後も続いてくものがある、と思っています。原作に、そういう匂いがあるんですよ。食堂がなくなり、そこの主人がいなくなっても、その味は別の場所に移って残っていく……という場面が原作にあるんです。東洋的な考え方というか、中心にいるのは人間じゃなくて、もうちょっと違うものが中心にあって、そこに人が来たりいなくなったりして行く、という感じ。それが「街」の「日記」っていうことなんだと思うんですよ。
是枝 あの街も、この後また誰かがいなくなって、誰かが入ってきて、微妙に変化しながら時間は続いていく。人より大きなものが描きこまれている原作だと思ったので、そこを感じてもらいたかったんです。
後編はこちら。
写真(是枝監督) 野頭 尚子/文 門倉 紫麻