見島にはジーコンボという古墳があります。
初めて聞いたとき、おかしな名前だなあと思いました。
元々は、ジコンボと呼ばれていたそうです。

初めは、八世紀前後頃の海防を重視して駐留していた防人の墓と教えてもらいましたが、この防人の墓というのも、確定している説ではないそうです。

他にも、色々な説があって、その中でも可笑しかったのが、
島で、お爺さんのことをジイコー、お婆さんのことをバアコーと呼んでいて、ジイたち先祖が眠っている墓であるからジーコンボ(爺魂墓)と呼ぶようになったという説は、さすが見島、やるなあと思います。

山口県本土の古墳時代の人とはその特徴が異なり、たくましい頑丈な身体つきで、身長2メートルぐらいの人々が埋葬されていたそうです。
その頃の日本人の身長からするとかなりの長身です。

民俗学者の宮本常一さんが昭和35年以来三年間、毎夏、山口県教育庁主催の総合調査の為に見島に渡っていたのですが、宮本さんも本でジーコンボの事にふれています。
「いったいこの島に人の住みついたのはいつ頃であったか。それはよくわからないけれども、今から千二、三百年前には既にかなり多くの、しかも生活力にみちみちた人たちが住んでいたようである。というのは島の南岸にある本村部落の東、ジコンボとよばれるところにおびただしい古墳があることから察せられる」と言っています。

宮本さんはその他にも、鹿児島県出水郡長島の南海岸にも同様な積石塚が何百とあるので、細かに調べていけば南九州と日本海のこの島との間の島々や海岸にも分布しているかも知れない、そして、日本海上に忘れ去られたようにみえるが、実際は海上交通の上で久しい間重要な役割を果たしていたと言っています。

こうみてくると、見島ってすごいじゃないか!と思うのですが、実際にジーコンボに行ってみると、すごく地味です。

ジーコンボの石を利用して防波堤を築いて沢山の古墳が壊されてしまったそうで、それでも約200基はあるというのですが、私は、3、4基しか見た事がありません。

それでも何十年後かには、きっといろんな事が判ってくるのではないか?
ジーコンボが注目される事を、じーっと待っている私です。

写真&文 野頭尚子