「雨の日は、ボクの気配が小さくなるんだ。だから、森を歩くと、ふしぎが伝わりやすい状況で、いろいろなもの見えてきて忙しくってしょうがない」もちろんそれはひそやかな楽しみなんだけど、と彼が言う。
 ふだんは目に入らない生きもの姿が浮かび上がる、雨の森のふしぎ。「森」という、ヒトが勝手に脳でイメージしている価値観が、くるりと転換する時間がそこあるようだ。

――なにしろ晴れていると、それだけで「気持ちがいい」よね。そんな心地よい環境にいると、ボクたちはいつもの通り、さも人間が強いものであるかのように錯覚し、知らず知らずに、まわりの自然に対して優位に立ってもの考え、振るまってしまうものらしい。
 だから夜の闇だとか雨だとか、動きを遮られる負の時間にあってはじめて、自分たちの「生きもの本来の大きさ」に立ち返ることができるんだと思う。
 人間は雨に打たれると、視界も足もとも悪くなり、毛皮を持たぬ生身は、濡れれば体温をとられる。そうした生命にとって負のシュチエーションになって、五感がおのずと働いてくるんだろう。そうして「不自由な生きもの」として自らを認めることで目がひらけ、まわりの生きものと対等に向き合えるようになれるのが、ボクにはうれしい。
 
 しっとり雨水に濡れた、緑の世界の美しさ。生き生きしてる、なんて感じるなんてところもまた人間側の勝手な見方かもしれず、ほんとうはずっと輝いていたのかもしれないけれど。そんな晴れの森で見えなかったものを、雨が見せてくれる。水をはじくシダの葉ぶりのよさ、樹幹をゆっくり前進するカタツムリ……へぇ、こんなところにいたんだと、ちょっとした「発見」の驚きがおもしろくってならない。

 そんな素晴らしい時間を何度も経験しているのに、だ。森歩きの途中に雨に降らてしまうと、つい「雨の森はすてきだけど、ツライな」なんて思いが頭をよぎる。確かに、ボクは不自由な生きものなんだ。――


 こんど雨が降ったら、緑のそばを歩いてみよう。雨の匂い、冷たさを身体で感じながら、果たして足もとの草や石と同じになったような気持ちになれるだろうか。

写真 細川 剛  / 文 おおいしれいこ