型どおりの細かな手順を守って稽古を深めていく、お茶の世界。
堅苦しくて窮屈で足がしびれて大変……と思いきや、茶道歴40年のエッセイスト・森下典子さんは
「どんなに悩んでいるときも、お茶に行くとすっきりする」そうです。
スタジオとお茶室という舞台は違っても、何かを学ぶ心は同じ。
森下さんに、型に沿って繰り返し練習する意味についてお話を伺いました。

――森下さんの著書「日日是好日 お茶が教えてくれた15のしあわせ」には茶道の生徒として感じたことや気づいたことが描かれていますが、ヨガと通じる部分が大きいので驚きました。

たぶんヨガもそうだと思いますが、悩みを抱えていてもお茶に行くとすごくすっきりするんですよ。私の仕事は後ろ盾もなく不安定ですから、今でも不安になったり追い詰められた気持ちになったりすることがたくさんあります。でも、お茶を点てている間だけは目の前にある具体的なことだけに集中する。すると、悩みが遠くなってきて少し救われます。

考えてみると、自分の視線が変わるんですね。状況は変わっていないけれど、少し引いたところから全体を見渡せるようになります。八方ふさがりの状況の中に風が通るような気がして、悩み多いときほど「そうだ、お茶行こう」と思います。

――お稽古の後、自分の視線が変わるのはなぜでしょうか?

頭で考えるのではなく、体を頼りにするモードで何時間かを過ごすからでしょうか。人間の頭というものは、どうしても未来の心配や過去の後悔ばかりしてしまいがちですよね。ところが、お茶は頭で考えることはやめて、体で覚えたことを繰り返します。とにかく理由はいいから繰り返しなさいと。

普段私たちは自分の外側に目を向けて暮らしていますが、お茶のときはそれをすべて閉ざし、自分の内側の真っ暗な部屋の中にサーチライトを向けて見回しているような感じです。前に一度、不思議な感覚を味わったことがありますよ。一瞬、お茶碗を手にしている自分をもうひとりの自分が何かの穴の中から見ているような……

――瞑想みたいですね。

本当にそうですね。私はよく知らないのですが、ヨガも禅の影響を受けていると聞いたことがあります。お茶もまさしく禅なので、同じ根っこを持っていると思います。私は時々、お点前はマントラなのではと思います。ものすごく細かい決まりごとがあって、柄杓で水やお湯を汲む動作だけでも、「水は上側を掬わないで中程から」「お湯はお釜の底から」とか、「からの柄杓は横にして通わせる」とか、「あ゛―!」と叫びたくなるほどです(笑)。それを体で思い出しながらお茶を点てるのですが、決まりごとでがんじがらめだからこそ余計なことを考えないで済むんですよね。次々にわいてくる雑念にとらわれないよう、ひたすらお点前でがんじがらめにするのかもしれません。

そのように余計なことを考えずにお点前をしていると、急に何かが腑に落ちたりすることもあります。適切な言葉を探していた原稿の答えが、ふとした瞬間にすとんと上から降りてきたりします。「そうだ! そう書けばよかったんだ!」って。きっと人は両手に荷物を持っているうちは答えをキャッチできないということでしょうね。そのときの私は無心に茶筅(ちゃせん)を振っていて、お点前でがんじがらめになっているからこそ、ある意味では手ぶらな状態にいた。だから、煮詰まったときのお散歩と同じように、ふっと別の戸が開いて求めていたことの答えが降りてきたのだと思います。

――お話を伺って、体で感じることを大切にしたいと思いましたが、つい頭で考えてしまいます。

私も最初は頭でお点前の手順を覚えようとしていました。でも、頭ではなく体になじませ、五感で感じていくことなのだと、だんだんわかってきました。いつもの道を歩いて、いつもの家の門を開け、乱れ箱(※)に荷物を置いて、同じつくばいで手を清め、左足から茶室に入って挨拶をする……。そうした稽古への一連のプロセスも、頭で考える日常モードから、五感で感じるお茶モードへの切り替えの手順のような気がします。

これは繰り返しの効用でもあると思いますが、今では玄関を開けて、炭の匂いを感じた瞬間にモードが切り替わる気がします。体を信じなさいと言われても最初はなかなかできませんが、自分でやってみるしかないですね。それはもう、生きてみなさいというのと同じことで、体験しなければわからない。人からもらった答えは自分の答えにならないし、実際にそれを生きてみることもできない。失敗してもいいから自分でやってみるしかないですね。

(※)衣類や手回り品などを一時入れておく、ふたのない浅い箱

――どうすれば失敗を恐れる気持ちを克服できますか?

お茶を長年続けているのに、私も未だに「ちゃんとできるかな?」と不安に思いますよ。そして、お点前にとりかかる瞬間、いつも「独りでここを生きなきゃいけない」と思いますね。でも、お点前が始まって柄杓を構えたら、「よし、私は自分を信じよう」という気持ちになれます。それは柄杓の竹の柄に触れた時、こうやって何百回も、いえ、もう千回以上もやってきたじゃないかと思えるからですね。私はへぼな茶人で未だにわからないことだらけです。信じられるものがあるとしたら、「繰り返しやってきた」という事実だけです。でもそれは、繰り返してきたから間違えなくなるのではなく、間違えることが怖くなくなるんだと思います。

間違えちゃいけないって考えると、ものすごく幅の狭い平均台の上を落ちないように歩かねばならないようで、怖いですよね。でも、何百回も場数を踏んで、数え切れないほど間違えて、恥をかいたり、落ち込んだりしているうちに、このごろ、平均台の幅がだんだん広がって、いつの間にか道になっていることに気づきました。落ちたって大丈夫。落ちたら、そこも私の道になる・・・・・・。だから、恐れず、ただベストを尽くせばいいだけです。

私には、お茶の才能みたいなものはないなと思います。でも、人生の半分以上続けてきて得たものはすごく大きかったと思います。自分がすることを選ぶとき、自分にその才能があるだろうかと考えるのは大事なことなのでしょうけれど、結果的には、才能以上に「継続」こそが力となるものも世の中にはあります。

いつだったか、お茶を教えている友人もこう話していましたよ。「不器用な子は時間がかかるけれど、器用でささっとできるようになる子より味のあるいいお点前をするようになるのよ」と。お点前はきっちり細かいところまで型が決まっているのに、どんなにその通りにしても、みんな一人ひとり違うお点前になります。型どおりにするほど、なぜかその人の個性が滲み出る。だから、お茶には終わりがありません。ヨガもきっとそうではありませんか?

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取材・文 古金谷 あゆみ/「スタジオ・ヨギーのある生活」vol.22より