こだわりたいことに繊細になる
第七夜
ヨガのクラスの最後、仰向けで休んでいると「林檎がごろごろ入っているタルトタタンが食べたいなあ」とデザート欲がわいてきた。雑念だらけ。ふと目を開けた私のお腹に、ふわりふわりと弧を描きながら落ちてくるものがある。小さな小さな白い羽がひとつ。誰かのダウンジャケットから抜け出てしまった羽毛みたいな。
次に降ってきたのは、小指の半分ぐらいの。
タルトタタンが食べられるお店、という私のリクエストで近くのビストロに入り、一緒にクラスを受けたゆうちゃんと晩ごはんにする。ゆうちゃんの後ろの壁にかけられた、フランス刺繍のタペストリーが目に入った。濃紺のウール地に草花が描かれ、花びら一枚一枚に何色もの刺繍糸が使われている。うっとりする。
「どうしたの?」
「そのタペストリーかわいいなあと思って」
「ああ」
ゆうちゃんはすぐに後ろを振り返って見てくれたけれど、あまり興味がないようだった。
「いいなあ。私、フランス語でも習おうかな」
「フランス語? そんなの習ったってフランスでしか通じないじゃん」
「そんなことないよ。カナダとかもフランス語だよ」
「カナダねえ……英語でいいでしょ」
言いたいことはわかる。英語なら仕事にも使えるし、旅行先もぐんと広がるし、インターネットだってなんだって、英語は世界の入口なんだ。でも、私は、フランス語のぼそぼそした感じが好きだった。小雨が降っている音みたいな、水が流れる音みたいな、時々、しょわっと聞こえる不思議な響きが好きだった。
「ミチもさ、英語がんばって勉強してさ、早く昇進試験受けなよ」
と、みぞおちあたりにうっと残る一言を放って、ゆうちゃんは「トイレ」と席を立った。
そのときだった。ふたつめの白い羽が落ちてきたのは。もうそれは気のせいなどと言い訳できないぐらいの速度で、つまりはすごくゆっくり私の目の前を舞い、テーブルの上のスマートフォンにきれいに着陸した。
3つめは、羽飾りみたいな。
ゆうちゃんとの晩ごはんの帰り、本屋さんで試しにフランス語の旅行会話の本を買ってみた。電車で座ってぱらぱらめくる。と、それが降ってきた。めくったばかりのページの上に、ひらりと。ぎょっとするしおりサイズ。私は思わず顔を上げた。目の前の乗客は、ほぼ全員が手のひらの中の画面に向かって忙しそうだ。幻覚だったりして。私、疲れてるのかな。ぱたんと本を閉じた。
タルトタタン、フランス刺繍、旅行会話の本……
これはもしかして、この勢いのまま格安航空券を検索したら、まさかの1万円ぐらいでみつかって、急に休みもとれちゃって、翌週ぐらいにいきなりフランスにいるとか、そういう展開?! と盛り上がったけれど、さすがにそれはなかった。
そのかわり、翌週ぐらいに、私はフランス語教室の体験クラスに行ってみた。ただフランスパンが好きだからという理由で食べ歩きに行く大学生の女の子、音楽学校の短期コースを受講する眼鏡くん、自分でカフェを開きたいというマダム、ワインが大好きな白髪まじりのおじさん。みんなとフランスの話をしていると、すぐに役に立つことだけを追いかけなくても、ちゃんと、どうにかしていけるのかもしれないと思えてくる。自分さえしっかりしていれば。
「ミチさんはフランスのなにが好きなの?」
「えーっと、お菓子とか刺繍とか……」
「女子だねー。かわいいものが好きなの?」
「うーん、そういうわけでもないんだけど……」
じゃあ、どういうわけなんだろう? 自分さえしっかりしていれば、なんて言えないや。タルトタタンは好き。薄くスライスされた林檎じゃなくて、ごろごろ林檎が入っているタルトタタンが好き。林檎まるごとっていう感じが好き。フランス刺繍も好き。花だからピンク、葉っぱだから緑って、一色で塗りつぶしてしまわないところが好き。野原で咲いている花を絵に描いたような。たとえば、この前のお店のタペストリーは……。おしゃべりが止まらない。
「へえー。自然そのままっていう感じが好きなんだね」
「え? そうなの?」
そんなことない、と思った。私の生活はエコでもベジでもない。全然気にしないでお肉だって食べるし、布ナプキンとか使ってないし。自然そのままなんていうキーワードは私の人生に出てきたことない。
「だって、林檎はまるごと、花は野生がいいんでしょ?」
心のなかに羽が降ってきたような気がした。家に帰って、あの旅行会話の本を開くと、3つめの羽がはさまっていたページには、
Vous aimez quoi ?
Qu’est-ce que vous aimez ?
Tu aimes quoi ?
Qu’est-ce que tu aimes ?
あなたはなにがすきですか? という例文が4つも載っていた。
こんばんは。第七夜のキーワードは「こだわりたいことに繊細になる」でした。あなたがこだわりたいことはなんですか? 最近ピンときたこと、ぐっときたこと、心のなかに羽が降ってきた瞬間はありますか? よかったらわたしたちにも聴かせてください。おたよりをお待ちしています。
イラスト 内田 松里/文 古金谷 あゆみ