みなさんは、今まで旅をした中で、どこが一番印象深かったですか?
ある旅行に関するアンケートで、堂々の一位に輝いたのが、アンコール・ワットです。ジャングルの緑の中でどんと構える巨大な石積みの伽藍、そして天空にそびえ立つ尖塔を、写真やテレビで目にしたことがあるでしょう。アンコール・ワットは、世界最大級の寺院の一つで、世界遺産にも登録されているカンボジアでもっとも人気の観光スポットです。国旗の絵柄のモティーフにもなっていることからも、いかにカンボジアの人々が、アンコール・ワットを誇りに思っているかがわかります。
訪れた人々の感想は、「圧倒された」、「美しい」、「壮大すぎる」、「神秘的」……と、かなりの感動の具合。読者の皆さんの中にも、きっと足を運んだことがある方がいるはず。感想はいかがでしたか? そうなんです。旅行ライターの端くれを自認している私ですが、いまだにこの世界的な観光地を訪れたことがないのです。これはいかん! と奮起して、早速、カンボジア行きのエアチケットを手に入れました。
日本からカンボジアへは、バンコクやシンガポールを経由して十数時間の空の旅になります。アンコール・ワットへの玄関となるのはシェムリアップという街です。かつて、クメール王朝の中心地だった古都には、フランス植民地時代の面影を残す古い建物が点在し、オールド・マーケットと呼ばれる市場には人々の活気であふれています。通りでは、バイクやクルマが激しく往来しています。思わず、「危ない!」と声を上げてしまいそうな交通マナーにあっけにとられて通りに立っていると、きっと声をかけられるはずです。「どこへ行くのですか?」。ツゥクツゥクと呼ばれるタクシーの運転手です。タクシーと言っても、バイクの後ろにカートを付けた乗り物で、現地の人々や観光客のお手軽な足として重宝されています。アンコール・ワットへ行くのには、このツゥクツゥクを利用するのが便利です。
街の喧騒を抜けると、周りの風景はジャングルの緑に変わっていきます。そして、突如として視界が晴れ、豊かに水をたくわえた湖と木々が密集した島が現れます。そう、アンコール・ワットのお目見えです。ツゥクツゥクに揺られてわずか10分ほど、カンボジアの至宝は意外にも街の近くに存在していました。湖に見えたのはアンコール・ワットをぐるりと囲む堀です。その敷地は東西1.5km、南北1.3kmにも及ぶのですから、島のように見えるのも無理がありません。正面入口の西参道の橋を渡り、第一回廊を抜けると、思わず息をのむはずです。広大な庭の向こうに、青空に向かってそびえる巨大な塔が! その高さは約65m、日本の国会議事堂と同じだと言いますから、その壮大さがわかることでしょう。まるで悠久の歴史の世界に迷い込んだような不思議な気分になります。
アンコール・ワットは、12世紀前半に東南アジアで随一の栄華を誇っていたクメール王朝が、その文化の粋を結集して創建したヒンドゥー教の寺院です。その巨大な建物は、すべて石を積み上げられて築かれています。石と石の間には髪の毛が入る隙間もないほど緻密で、当時のクメール文化の技術力の高さがかがえます。さらに驚くのは、床から天井まで施された装飾です。回廊の至る所に、アプサラと呼ばれる天女の姿が刻まれ神秘的な笑みを浮かべています。壮大なスケールの建築と繊細なアートの融合、それがアンコール・ワットの魅力と言っていいでしょう。
しかし、この世界遺産が歩んできた歴史は平たんではありませんでした。クメール王朝の衰退とともにアンコール・ワットは、その存在を忘れ去られ、6百年にわたりジャングルの深い森の中に閉じ込められてしまいました。熱帯の巨木の根が石に浸食し、建物は倒壊の危機に見舞われました。アンコール・ワットの敵は自然だけではありません。その最大の敵は、私たち、人間でした。ご存じの通り、カンボジアは、1970年から長い間、内戦状態でした。その間、アンコール・ワットは、軍事拠点として利用され、無残に文化遺産が破壊をされたのです。
アンコール・ワットは、1992年、ユネスコの「世界文化遺産」に登録されました。それと同時に、緊急の修復が必要とされる「危機にさらされている世界遺産リスト」にもリストアップされたのです。以降、日本を始め世界の国々が、この文化遺産の保護活動に力を入れています。それは単なる援助ではなく、カンボジアの文化遺産をカンボジアの人たち自らが保存修復できるように、人材育成を目的としています。今や、その成果も実り、アンコール・ワットは見事によみがえり、多くの観光客を魅了しているのです。
まだアンコール・ワットを訪れたことがないのなら、ぜひこの地を訪れて、その歴史の流れに耳を澄まして下さい。その静かな流れは、ようやくカンボジアが手に入れた平和への調べと言っていいのかもしれません。