古き良き、ハワイの“日本”を訪ねて
Hawaii vol.2
はるか彼方の常夏の島で、なぜ? ご存知の通り、ハワイには多くの日本人が移り住んできました。その歴史は百年以上前の明治時代にさかのぼります。当時、労働力が不足していたハワイで、サトウキビ畑や製糖工場で働く担い手として期待されたのです。世界中から、ハワイへ移民がやって来ましたが、日本人の数がもっとも多かったと言われています。
しかし、移民の生活は決して楽ではありませんでした。つらい労働環境のもと、祖国から遠く離れた慣れない土地で日本人はお互いに協力をしあいながら、地道に働いてきました。その勤勉さと真面目さが、ハワイの社会の中で評価され、日本人移民の子どもたちからはハワイ州知事、アメリカ合衆国議員まで生まれました。日本人移民は自分たちのを暮らしや伝統を大切してきましたが、そのエッセンスが長い時間をかけて島に溶け込みハワイ文化の中で新しく生まれ変わって来たのです。
たとえば、古いハワイのコミュニティでは、日本の言葉が普通に使われてきました。タコ、キモノ、ベントウ、モチ、ベンジョ……。古いところでは、ニシメ、ゾウリ……。変わったところでは、ネンネ(大人も使うそう)、シーシー(トイレのことですね)……。英語とのミックス、ボン・ダンス(「盆踊り」)。あまりきれいな言葉ではありませんが、鼻水はハナ・バター(なんでかわかりますか?)。
ハワイで人気のローカル・フードが、ポケ。マグロのお刺身をしょう油ベースのソースに漬け込んだメニューですが、まさに日本で言うマグロの漬け。日本人移民の家庭料理が、今はすっかりハワイを代表する料理の一つになっています。ここ数年、日本ではハワイアン・レストランが人気ですが、ポケは定番料理。時を経て逆輸入されたというわけです。
トタン屋根に緑やピンクの色とりどりの壁。小さな店が肩を寄り添う様にメイン・ストリートに立ち並びました。「マツモト」、「ヨシダ」、「アオキ」……、その商店の看板に書かれていたのは日本人たちの名前でした。やがてハレイワはノースショアを代表する町になり、娯楽を提供する映画館や石造りの立派な橋ができました。残念ながら映画館は閉館しファストフード店になってしまいましたが、ハレイワ・ブリッジは今なお人々の生活を支え、ランドマークとして愛されています。
日本人移民の子孫は、今や四世、五世の世代となっています。日本語を話すこともできず、日本に対する想いも希薄になっています。異なる土地で生きていく上では、それが必要ですし自然な流れでしょう。ハレイワの町も観光地化が進み、日本人移民は店を畳み、後には観光客目当てのショッピング・モールや土産物屋ができました。しかし今でもハレイワに行くと、時を超えた古き良き日本の空気をどこかにかぐことができます。大海原で隔てられた地で暮らした日本人移民の望郷の念が、それだけ強かったということでしょう。
ハワイで感じる、なつかしい気持ち。それは現代の私たちが失いつつある“日本”へのノスタルジーのような気がします。
文 美濃部 孝/写真 Hawaii Tourism Authority, Big Island Visitors Bureau, Tor Johnson, Kirk Lee Aeder, Ethan Tweedie