インド独立運動を戦った祖父と、父・アナンのこと

鎌倉・極楽寺の路地の先にある、よく手入れがされた日本家屋。風格ある建物、おおらかな縁側、昔ながらのガラス戸に雪見障子、風が渡る庭……。築90年になる古屋を保全したいという思いもあり、スパイス商を営むアナン一家がこの家に10年ほど前に移り住んだ。

「祖父がインド漁業の発展に貢献するために、1954年に西インドで創業したのがはじまり。インドが独立を勝ち取って7年目のことです」とバラッツさん(写真左)。

バラッツさんの祖父は、マハトマ・ガンジーと共にインド独立運動を戦った闘志である。ビジネスの面でも、原料をそのまま外国に売るのでは独立とは言えず、自国で製品にまでしてから輸出することが大事だと会社を興す。その後、父であるアナンさん(写真右)の時代に来日し、やがてカレー粉やスパイスを手がけることに。現在は100種類以上のスパイスを中心に、豆や紅茶なども扱っている。力強い目をしたアナンさんは、まるで簡単に答えの出ない問答をする神様のようなオーラをまとう。

「スパイスは歴史を作ってきました。もし世界にスパイスがなければ、現在のアメリカは存在しないでしょう。スパイスを求めて航海に出たコロンブスの船には、多くの囚人がかり出されたそうです。行く先に何があるか想像もできなかった時代、航海はまさに命がけ。命の危険を犯してまで追い求める価値がスパイスにはあったのです。そして、讃えるべきは沢庵和尚だ。中国から持ち帰ったターメリックを薬だと紹介するのではなく、料理に取り入れてやさしく人にすすめた。そう、たくあん漬けのようにね」。

5000年の歴史があるインドのスパイス文化や、本格的なインドカレーを日本にやさしく紹介してきたアナンさん。日本人の舌に合うインドカレーが簡単にできるよう考えられた「カレーブック」は、30年前に生まれ、今ではデパートや高級スーパーの人気商品になっている。

宮城・女川町で動き出したカレープロジェクト

物心ついたころからスパイスに囲まれて育ったバラッツさんが、自らの仕事としてスパイスの道を選んだのは自然の流れだった。彼は中学卒業まで鎌倉で育ち、高校は南インドのニルギリ地方にある全寮制の学校へ。卒業後はスイス・ジュネーブの学校を選択し、その後スペイン・アンダルシアへ3年ほど留学。スペイン語と経営学を学び、2006年に帰国する。

「鎌倉に戻ってからは、いろいろな勉強をしながら父の仕事を手伝いました。そのうちに自分がやるべきことがはっきりしてきたんです。ターメリックをただ袋につめて売るのではなく、自分にしかできないこと。それはスパイスをブレンドして商品化することで、人の輪をつなげることだと。学生時代に世界各地の友だちができたことも助けになります」。

確かな手応えを感じたのは、女川カレープロジェクトだった。東日本大震災があり、友人に誘われて宮城県女川町で炊き出しをしたのがきっかけだ。半壊した民家に囲まれた駐車場で、挽肉と豆のカレーを作った。それは体が温まるようスパイスをたっぷり使いながらも、子どもやお年寄りもおいしく食べられるやさしい味わい。地元の人たちの「おいしかったよ」「ありがとう」の言葉が励みになり、何度も女川に通った。
「でも次第に、これでいいのか? という葛藤が生まれました。いくら支援しても足りない現状や、一回一回の炊き出しでは限界があることが見えてきたんです。そのうちに貯金が底をつきました」。

遠く離れていても支援できることは? 地元の人たちが経済的に持続するには? 考えついたのが、炊き出しのカレーに使ったスパイスをセットにして商品化し、地元の人に製造してもらうこと。それが雇用につながり、女川の名産品として全国に知られれば軌道にのる。
「このアイデアを形にするにはハードルもありました。最終的には商工会が賛同してくれ、2013年の夏に法人化してようやく始動。今では女川の90%の店で女川カレーを作っています。ある食堂では、平均年齢75歳のおばあちゃんたちが、4種類の本格的なスパイスカレーを作っているんですよ。なんだか嬉しくなります。女川には、さんまや鮭、帆立など豊かな海の恵みがある。これからどんな女川カレーが育っていくかが楽しみです」

スパイスが素材の個性を引き出してくれる

この日、バラッツさんが作ってくれたのは、彼の生まれ故郷である南インドの料理「キャベツと豆のポリアル」と、「オクラとトマトのサブジ」。ポリアルとは野菜のスパイス炒めのこと。ココナッツ油に赤とうがらしとマスタードシードをひとつまみ。辛味や風味を油に移し、たっぷりのせん切りキャベツと、少し粘り気のある豆(ウラドダール)を加えて炒め、仕上げにターメリックをふったシンプルな一皿だ。マスタードシードの香ばしい香りが加わり、キャベツのたよりない甘みを引き締めているのか、キャベツがこんなにおいしいものかと驚いた。サブジとは野菜の炒め煮や蒸し煮のことで、相性がいいオクラとトマトをクミン、コリアンダー、ターメリックがさらに味わい深いものに変える。スパイスが素材の持ち味を引き出すとはこういうことだと、これらの料理が無言で教えてくれていた。

スパイスが世界を魅惑するのは、その香りや味わいだけでなく、さなざまな効能があるためだ。インドでは、ごく一般家庭の母親がそれぞれのスパイスの効能を理解し、日々の料理にスパイスを使う。
「最近は、日本でも自分でスパイスからカレーを作る人が増えてきましたね。でももっとスパイスのことを知ってもらいたい。カレーだけではなく、私は四季折々の鎌倉の野菜や豆によく使っています。チャイは数種類のスパイスが入っていて、簡単に作れるのでおすすめです。体を温め代謝をよくしたり、消化を助けたり、心を静めたりといろいろな効能があり、冬は温かくして、夏は冷たくして楽しめます」。

【チャイの作り方】
材料(2杯分)
紅茶(アッサムがおすすめ) 茶さじ2杯
水、牛乳 各カップ1
シナモンスティック 1/2本(3〜4cm)
カルダモン 3粒
クローブ 3粒
好みでジンジャー、ナツメグ、ブラックペッパー
砂糖 好みの分量

作り方
小鍋に砂糖以外の材料を全て入れて火にかけ、沸騰しないように火加減を調節しながら5分ほど煮る。茶漉しでこしながらカップに注ぎ、砂糖を加える。

ブレンドスパイスだからこそできる可能性がある

バラッツさんは今、30歳。彼のスパイスの道は、いろいろなところで人と地域の輪をつなげている。群馬・桐生では、特産のくわの葉をパウダーにして加えたカレースパイスを作り、同じく特産のうどんに合わせてカレーうどんに。花屋で販売するチャイのブレンドには、ローズやアップルピールを入れる。広島・尾道では地元の特産品をイメージしたブレンドスパイスなど、それぞれの個性を生かした新しい商品が次々と生まれる。

「100種類以上もあるスパイスをどうブレンドするかはさじ加減。それぞれの香りや効能を考え、主役をイメージして作っていくわけですから、可能性は無限大です」。

日々、いろいろなところに出会いがあるなか、「この人と何かやったらおもしろそうだな」という直感を大切にしているとバラッツさん。新しいものを生み出すときは、机の上で悩んでいても答えは出ない。その場所に足を運んでこそ勘が働き、進むべき道が見えてくると。

この冬、2012年からスパイス学の講師を務めていた自由大学が東京・南青山に移転するのに先立ち、隣に初めての店舗となる「バラッツ! スパイスラボ」がオープンした。ここではアナン・コーポレーションが扱うスパイスが揃い、3種類のカレーとスパイスを使った小皿料理、チャイやインドのアルコールなどを楽しめる。

「スパイスは映画でいうなら名脇役。そう、例えていうならモーガン・フリーマンのような。脇役だからこそ、活躍の場がたくさんあるのだと思います」。

写真 大杉 隼平 / 文 増本 幸恵