仕事以外の時間を大事にすることで天職の料理も人生も、より豊かになる
I now find my best inspiration outside of the kitchen.
辛辣で有名なニューヨーク・タイムズのレストラン批評でも三ツ星という最高の評価を獲得したその店の名前は<Kyo Ya>。その批評は絶賛で始まっている。
「時にはサーチエンジンのリサーチ結果をはるかに超えた素晴らしさに出会うことがある。
<Kyo Ya>。イーストヴィレッジの真ん中にあるここで料理を味わうと、冒険の幕が開き秘密が少しづつ解き明かされていくようだ」
この<Kyo Ya> の料理長が園力(その・ちから)さんだ。食材も手に入りにくいニューヨークで「仕込みに手を抜かない本物の職人」と絶賛される園さんだが、ここにいたるまで、ガツンと手応えのある、ユニークな人生を送ってきた。――
繊細な仕事をするごつい手の持ち主。何かを作り上げるのが好きだった
トヨタでメカニックをやるのが幼稚園の頃からの夢でした。車大好きで、毎月父親の給料日に、ミニカーを4台買ってもらって。そんで、小学校2年くらいのころにはもう町中で走っている車の車種を、霊柩車まで全部言えた。もちろん、霊柩車のミニカーも持ってたんですよ(笑)。それで念願の企業に就職して車を買ったんですが、非常に燃費の悪い車で。ガソリン代欲しさに終業後メカニックのアルバイト始めたんです。でも朝から晩まで一日中同じ仕事をしてると嫌になり、先輩に「なんか違う仕事ないスかね?」と聞いたら、先輩の先輩がやっているカウンター割烹の店を紹介してくれた。それまでカレーとラーメンしか作ったことがなかったけど、そこで働き始めて、基本を教わった。
ニューヨークに来て稼がないとお金ないから、当時46 丁目にあった<Naniwa>って店に面接に行って翌日から働き始めたんですよ。<Naniwa> の方たちは料亭<菊の井>さんで三番手だった人が頭で、関西料理界の人たちが入ってたんですね。でも僕は板前やるのが嫌で、サービスをやらせてもらってたんです。そしたらたまたまその日「人が足りない、ランチのサラダ盛ったり、レモン切ったりだけ手伝って」って言われて。オヤジ(料理長)に頼まれたらしょうがねえ、とやっていたら、オヤジが俺の手つき見てバッと飛んできて「お前、板前やってたよね?」と。「なんで言わないの? 今日の夜から料理やれ。今より給料も20 ドル上げてあげるから」と。自分はもうその20ドルが嬉しくて「はい、喜んでー!」とね(笑)。
その時の経済状態はというと、月の家賃が168ドルの56 丁目のめちゃめちゃ危ないところにあったホテルアパートメントに住んでたんです。これは当時としても破格値ですよ。小さいシンクがあるだけで共同トイレ・シャワー。5階まで階段だけど月140 ドルの部屋があるって聞いて見にいったら、ベッドだけでスペースなし。でもどうせ寝に帰るだけだし月に28ドル浮くんならありがたい。そんな感じでした。そうやってニューヨークでの板前修業が始まったんです。
随分昔からね、諸先輩たちはひたむきに和食を作ってきた。照り焼きがブームになったりして、ただ一生懸命やっていた方たちがいるわけですよね。でも今まではその仕事にスポット当たってなかったわけじゃないですか。ウチは「さきがけだよね」とよく言われるんだけれども、彼らがどうにか裾野を広げながら仕事してきて、その上で初めて<Kyo Ya>が今ある。そしてだんだん皆さんの目に留まるようになって「ちょっと和食が面白い」というふうになったわけじゃないですか、本当の話。どうやったって異国でやってるわけだから。
親方、先輩たちがいたから今がある。それを次の世代につなげる
オープンした最初の年、ミシュランは10 月発売なんですが店紹介だけは載せてくれた。ザ
ガットは実は最高点だったんですが評価母数が足りなかった。じゃ、来年からニューヨーク
で一番の和食のお店って言われるようにしようという目標ができたんです。一番って何かというと、「お客さんが一番美味しかったといってくれる店」にしようと。アメリカ人だろうか日本人だろうが、それも関係ない。俺達がみんなでこれが一番美味しいと思ったものをお客さんに提供しようと。とにかくニューヨークで「あそこ一番美味しいよね」と言われる店にしようと。星を目標にするんじゃなくて、自分たちが満足するレベルの料理を出したら評価はついてくる。次の年はそこを目標に、朝から夜中まで仕事してっていうのを続けたら、星をいただきました。
それが、<Kyo Ya>を始めてからは常に料理のことを考えていた。常に電車やバスの中でも仕事の段取り考えてる。それがよくないなあと。今は仕事終わってから仕事の話一切
なしってことにして、最近日月は店を閉めています。そうなったら少し気持ちの余裕ができて、ミュージアム行って絵見てみたりして「なんでこんな色使いすんの?」「もし料理にするなら?」と。
今51 歳なんだけど、昔オヤジに言われたことをよく思い出します。30 歳の頃なだ万のオヤジに「俺が作った献立やってて、お前ら『これってどうなの?』と感じてる料理があると思うんだよね。でもいまのお前の歳だとその料理の真価は分からない。お前は30 歳そこそこ、食べてないものもあるでしょ。歳相応の料理というのがやっぱりあるんだよ」と。「歳を重ねると味付けも変わるし、食感も変わる。歳を重ねていくとだんだんと人の気持ちがわかるようになってくる。お前が今まで経験したことを、周りの若い連中に教えながらやるのが、その店のカラーだから」って。幅を広げろ、それじゃないと未来はないと。
料理のことだけ考えてると人生が面白くなくなる。自分の人生と、自分の天職の料理をやっていくんであれば、料理のことを考えない時間を意識的に作らないとダメなんですね。
写真 Miho Aikawa / 文 山祥 ショウコ