“少し高い”目標に向かって自分の力を最大限高めていく
田代 高校生から始めたバイクのオフロードレースのトレーニングのためにスポーツ自転車をやろうと思って、大学でサイクリング部に入部したのが始まりです。自転車は自分の脚でペダルを踏むことが原動力になるので、自分の力次第では一日で200キロ走れますし、山も登ることができるので、バイクとは違った達成感がありました。景色を眺めながら走れるというスピード感も心地よくて、一気に自転車に魅了されましたね。
――そこからすぐにプロを目指したのですか?
田代 僕が所属していたサイクリング部はサークルのような軽い雰囲気の部だったので、最初はプロになることは意識していませんでした。とはいえ、毎年夏休みには北海道まで自転車で行くなど、とにかく自転車にはたくさん乗っていたので自然と体力がつき、大学3年生から興味本位で市民レースに参加し始めたんです。そうしたら、3回目くらいで優勝してしまって、俺って才能あるんじゃないかって勘違いしたんですね(笑)。そして大学4年生のときに、たまたま自転車雑誌で見たプロ選手募集の広告に応募したら、受かってしまって。大学卒業後に、そのチームに所属することになったんです。そして3年目を迎えたとき、チームの監督が「チームブリジストン・アンカー」の監督に抜擢され、僕もついていくことになりました。
がむしゃらに追い続けたツール・ド・フランス出場という夢
田代 たしかに選手生活3年目に、日本トップレベルの選手が集まるチームに所属できたというのは、異例のスピードだったと思います。しかし、ここからが本当の試練の始まりでした。僕は体重が軽いので登り坂は得意だったのですが、平坦な道になるとテクニックや筋力が必要なので、とたんに走れなくなったんです。まわりは中学などからロードレースを始めたエース級の選手ばかりですから、歴然とした差を知って愕然とし、走り方の基本から練習をやり直し、トレーニングに明け暮れる毎日を送りました。
そうして1年が過ぎたころ、監督が世界最高峰の自転車レース「ツール・ド・フランス」に日本チームとして出場することを目標に掲げたんです。出場するには所属選手が大会に出場して獲得したポイント数や資金力など、さまざまな厳しい条件をクリアしなくてはなりません。そこで自分は何ができるかを考え、とにかく大会に出場して経験を積み、技術を磨こうと、拠点をフランスに移すことを決めました。
――フランスではどのような生活を送っていたのでしょうか。
田代 自転車がスポーツとして深く根づいているフランスでは、プロからアマチュアまで自転車チームが無数にあるのですが、自分が所属できたのはアマチュアの中でも下から2番目のチーム。チームメイトは“おじさん”ばかりでしたが、シニアの世界チャンピオンも所属していて、みんなすごく速いんです(笑)。大会に出ても、最初はまわりのスピードについていけずに完走できませんでした。チームメイトにいつも怒られながら、フランスだけではなくヨーロッパ各地で開催される大会に遠征し、気づけばフランスにわたった最初の1年間だけで120ものレースに出場していたんです。もちろんチームブリジストン・アンカーとしても大会に出なくてはなりませんので、日本とフランスを行き来する生活を4年間続けました。
田代 自分には「ツール・ド・フランス」への出場権を獲得すること以外、何もありませんでした。大学卒業後からプロの道に入ったので他の選手よりスタートが遅く、年齢的なリミットも近かったので、とにかく今できることはやろう、と必死だったんです。2004年にアテネオリンピックに出場した際も、レースが終わったらすぐにフランスの大会に出場していたというほどでしたから(笑)。
でも結局、自分が現役の間に出場することは叶わず、選手生活12年目に引退を決意しました。自転車には一生乗らなくてもいいと思うくらいやりきった感じがあったので、後悔はまったくありませんでしたね。
自転車が楽しいという自分の原点を再確認して
田代 はい、34歳で新入社員になりました(笑)。選手になったときもそうですけれど、会社員になるのも出遅れたので、とにかく仕事を早く覚えようと、仕事漬けの毎日を送りました。マーケティングや広報でさまざまな業務を経験させてもらい、最終的には青山にあるショールームの運営を任されるようになりました。
――選手を引退してからは自転車には乗らなかったのですか?
田代 ほとんど乗りませんでしたね。とにかく仕事を覚えるので精一杯でしたので。再び乗るようになったのが、入社してから6年が過ぎたときのことでした。業務の一環として「オート・ルート・アルプス」というスイス-フランス間で開催されるアマチュアの大会に出場することになったんです。元オリンピック選手が出場する、ということになれば当然期待もされるので、ブランクを少しでも埋めようと仕事の合間にみっちりトレーニングをしました。体力的にはつらいはずなんですが、それがすごく楽しかったんですよね。そして大会に出場したときも、選手時代には感じることすら忘れていた自転車に乗ることの楽しさを、改めて思い起こすことができたんです。
40歳を目前に歩み始めた新たな自分の道
田代 ブリヂストンサイクルでショールームの運営を担当していたとき、スポーツ自転車を一般の人に普及するためのイベントを企画していたのですが、参加者から「スポーツ自転車は高額だし、素人は専門店に入りづらい」という意見をよくもらっていたんですね。それなら、だれでも気軽にスポーツ自転車に親しめる場所を作ってみようと思ったのが、「リンケージサイクリング」を立ち上げたきっかけです。
じつは、ブリヂストンサイクルを辞めるかどうか、とても悩みました。やりがいのある仕事をさせていただいていたのですが、だんだん管理職としての仕事が増え、現場から離れることが多くなってきた中で、この先の生き方を考えるようになったんです。そして40歳を目前にしたとき、やっぱり自分は現場で仕事をするのが好きだし、年齢的にも新しいことを始めるラストチャンスだろうと思い、独立を決めました。
――お話を伺っていると、何事もとても前向きに取り組んでいらっしゃる印象を受けました。モチベーションを保つために工夫していることはありますか?
田代 僕の場合は“少し高い”目標を設定することですね。つらいのは分かっているのですが、そのほうが力を十分に発揮することができるんです。じつは、これからヒルクライムという登り坂だけの大会に出る予定なのですが、練習がつらくて(笑)。早朝5時半に起きて、近くに住む後輩を無理やり連れて、山を自転車で登ることがあるのですが、山頂から朝の江の島の風景を眺めると、つらさはどこかへ飛んでいき、清々しい達成感だけが残るんです。
写真 小禄 慎一郎 /文 小口 梨乃