数年前の夏に、座禅を体験したことがある。それはとても暑い日で、もちろんクーラーなどないお寺で汗をだらだらとかきながら、懸命に坐禅に集中しようとした。最初はなかなか上手くいかなかったが、僧侶の言うとおり息をゆっくりと吐くことに意識を向けていくと、だんだんと汗がひき、心に静寂が訪れた。

座禅やヨガなどを通して、一度でも呼吸に向き合ったことがある人なら、同じような体験をし、呼吸がもたらす“何か”を感じたことがあるかもしれない。その“何か”について、脳科学的な立場から研究を重ねている有田秀穂先生に、呼吸のメカニズムについて聞いた。

「普段無意識で行っている呼吸と、座禅などで行う呼吸とは、決定的に違うということをまず知ってください」と有田先生は言う。
「私たちは生まれてから死ぬまで、起きているときも寝ているときも、無意識に呼吸をしていますが、その目的は血液に酸素を送り込むことです」

この呼吸ではまず、脳の呼吸中枢が指令を出して横隔膜(胸とお腹の間にある筋肉)を下げ、肺を広げて、積極的に空気を入れていく。つまり、血液に酸素を送り込むために、空気を“吸う”ことを重点的に行っているのだ。

一方座禅などで行われる呼吸は、空気を“吐く”ことが基本になる。
「座禅では、丹田と呼ばれる下腹部の腹筋を使い、腹筋を意識的に収縮させながら、ゆっくりとしたペースで、できる範囲で息を吐いていく“丹田呼吸法”を行います。この丹田呼吸法でポイントになるのは、“一定のリズム”をもって、筋肉を“動かす”こと。そうすることで、私たちの心の在りように深く関係のある、脳内神経伝達物質『セロトニン』の分泌がさかんになります」

セロトニンには、脳の状態を落ち着かせながらもクリアにし、心の平常心を保つ働きがある。また、セロトニンを活性化させると、うつ病などの精神的な病気にもなりにくくなるとされ、ストレスに冷静に対処するためにも有効な物質だ。
「セロトニンは起きている間ずっと、一定量分泌され、眠っているときには分泌されません。しかし、ストレスが原因でセロトニンの分泌が低下してしまうことがあります。そこで、丹田呼吸法などの一定のリズムを保った運動によって、活性化させる必要があるのです」

さらに、丹田呼吸法によって、セロトニンの分泌が促されると、脳波に変化をもたらすことも分かったという。
「脳波には、α波(目を閉じているときの脳波)、β波(起きているときの脳波)、θ波(うとうと眠くなっているときの脳波)、δ波(眠っているときの脳波)の4種類があります。丹田呼吸法をしているときの脳波を調べると、β波の中にα波も測定されました。それも心が安定しているときに出るα2という脳波です。つまり脳が、覚醒しているけれど鎮静しているという特別な状態になっていることを示しています」
それは「自分の力で、自分を癒す薬を出しているようなもの」と有田先生は言う。

「呼吸に意識を向けるだけで、脳にプラスの変化をもたらし、心と体が元気になります。呼吸法はもちろんお金もかからないし、副作用もありませんから、薬やサプリに頼るのではなく、生活習慣のひとつとして取り入れ、不調を改善する助けにしてほしいですね」。

丹田呼吸法の恩恵を受けるためには続けることも大切で、最低5分、できればセロトニン分泌がさかんになる朝に行うのが効果的だ。
「私も毎朝必ず呼吸法をしています。自分の心が落ち着いていると、家族や職場のスタッフなど、自分を取り巻く人たちとの絆に喜びを見出せるようになりました」

文 小口 梨乃/イラスト 櫻井 乃梨子